喜びは同居する

2016年3月29日(イースター合同礼拝)
寒河江健牧師

マタイによる福音書 28章1~10節

さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

  • イースターおめでとうございます!そして洗礼を受けられた3名の方々、心からお喜びいたします。初めての聖餐のお味はいかがだったでしょうか。今日はイエスさまが復活され、全世界が暗闇から一転して喜びの光に包まれた日曜日の朝を記念して、イースター礼拝を捧げています。イエスさまが復活された!これこそがこれまで約2000年間教会を、そしてキリスト教徒一人ひとりを支えてきた原動力であり福音そのものです。
     日本ではイースターよりもクリスマスの方がメジャーになってしまいましたが、キリスト教的にいえばイースターの方がはるかに重要度が高いわけですから、せめて1パーセントに満たない日本の教会だけでも、イースターをクリスマス以上に喜びましょう。ましてやわたしたちは今日3名の方の受洗というこの上ない喜びを与えていただいたわけです。三者三様の素晴らしい信仰告白、証でしたね。洗礼を受けた方々以上に、むしろわたしたちの方がお三方を通してこの場に神さまが、イエスさまが力強く生きて働いておられるのだということを教えていただきました。そしてこの千葉教会がイエスさまから頂いた福音を世の中の人に伝えるというミッションの一端を担うことができているという励ましをいただくことができました。本当に嬉しく思います。
  • 福音書にはさまざまなイエスさま復活顕現の場面が収められていますが、マタイでは2人の婦人が最初にイエスさまが復活されたことを知らされ、また実際に復活されたイエスさまに出会ったことが記されています。彼女たちは大いに喜びました。もう少し正確に言うと彼女たちは、「恐れながらも大いに喜」(8節)んだのです。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(8節)。彼女たちの心には恐れと喜びという二つの感情が同居していました。不思議ですね。恐れと喜びは同居しないように思えます。不安と恐れが同居するのなら分かります。幸せと喜びが同居するのなら分かります。しかし聖書は恐れと喜びの同居を描いています。喜びの中にも恐れがあり、また恐れの中にも喜びがあると聖書は語っているのです。

     3月というのは多くの人が新しい生活を迎える季節です。うれしい、楽しい生活が待っているという人もいるでしょう。特に希望する会社に就職を控えている人や、高校、大学に進学する人たちはそうかと思います。しかしその胸の内には喜びだけではなく、恐れもあるのではないでしょうか。これまでの生活や友人関係が維持できなくなる恐れがあったり、新しい環境に馴染めるかという恐れがあります。わたしはせっかく希望する会社へ入社したのに、すぐに辞めてしまった知り合いを何人か知っています。よく「最近の若者は根性がない」とは言われていますけどそれは的外れもいいところで、実際は喜びに同居する恐れに囚われてしまい、身動きが取れなくなってしまったのではないでしょうか。

     喜びの中に恐れが同居しているように、恐れの中にもやはり喜びが同居しています。4月から始まる新しい生活は何もうれしい、楽しい生活を控えている人だけではないでしょう。4月から全く知らない土地で働くことになり、大きな不安や恐れを抱えている人もいるでしょうし、また4月から1年間、希望の大学に入るために浪人生活が始まる人もいるでしょう。わたしの妻も、結婚した3年前の4月はうれしいよりも不安の方が多かったと想像します。「生まれてこのかた西日本で生きてきたので、知り合いや友人が関東にはほとんどいない。」という不安がありました。さらに「結婚する相手は伝道師であり、周りの人からは『あら〜、あなた牧師婦人になるの。大変だけど頑張ってね』」なんて言われる。こんな環境を喜んでいたらよほど変人です(笑)。きっと3年前の今頃は不安だらけだったと思います。でも3年経ったいま、2人で「この3年間を振り返って改めて、たくさんの喜びがあったね」と話しています。この3年間、恐れや不安がなかったわけではありません。でもどんな不安や恐れの中にも喜びが確かに同居していたことを実感しています。同じようにこれから不安や恐れを抱えて4月を迎える方々の生活にも必ず喜びは同居しています。皆さんが恐れに支配されることなく、その生活に同居し、端々に現れる喜びに出会うことができるよう心から祈っています。

     イエスさまが眠るお墓にやってきた婦人たちがまず感じたのは恐れでした。彼女たちが目撃したのは恐ろしい場面です。マタイは今日のシーンで女性たちの他に番兵たちを登場させています。彼らは「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようにな」(4節)りました。顔面蒼白、血の気が引いたということでしょう。彼らは恐怖に支配されています。大きな地震が起き、主の天使が天から降り、墓石をわきへ転がしてその上に座ったのですから震え上がるのも分かります。彼らは恐れに支配され、この恐れの中に同居する主イエスの復活という喜びの知らせには気付いていません。でも婦人たちはこのような光景を目の当たりにしても、恐れながらも大いに喜びました。彼女たちは恐れに同居する喜びに気付いたのです。どうしてなんでしょう。

     主イエスが十字架に架かって死んだのが金曜日、安息日の土曜日には何もすることが許されませんから、彼女たちは日曜日の朝イエスの墓にやってきました。彼女たちがなぜこのとき墓へ行ったのか、よく分かりません。聖書の解説本ではよく、イエスの身体に油を塗るためだと説明されています。確かに『マルコによる福音書』には、女性たちがイエスに油を塗りに行くために香料を買ったと記しています。でも『マルコによる福音書』を知っているはずのマタイは、自分の福音書にこの理由を記していません。彼女たちがイエスの遺体に香油を塗りたかったとかそういうことではなく、マタイはむしろ単純に、「彼女たちはいてもたってもいられなくなってイエスの墓の前に来た」とでも言いたそうです。女性2人じゃお墓を塞ぐ大きな石を退けることはできませんし、墓を見張る番兵たちがいることも知らなかったはずです。でも彼女たちはとにかく情熱に突き動かされてイエスの墓にやってきました。

     それに比べると、男弟子ってのはなんとも情けないですね。多くの男弟子、特に仰々しく12弟子と呼ばれる男たちは、イエスが逮捕されると蜘蛛の子を散らすようにイエスを置いて逃げて行きました。イエスが十字架上で死んだときにも、そこには大勢の婦人たちがいたと記されていますが、男弟子の姿は記されていません。きっと彼らは「自分たちが神の子、キリストだと信じたイエスが逮捕され、殺されてしまった。このままでは自分たちの身も危ない」という不安や恐怖に支配されていたのでしょう。しかし婦人たちは違いました。彼女たちは恐れを覚えながらも、イエスさまにもう一度会いたいという情熱に突き動かされて十字架のもとに集まりました。そして2人の女性は日曜日の朝、お墓の前に駆けていったのです。

     女性たちの取った行動は賢いというよりも愚直です。彼女たちは「とにかくイエスさまに会いたい」という思いから十字架の前に大勢集まりました。また墓を塞ぐ大きな石をどうやってどけるかということを考えるより先に身体が動き、イエスの墓へと向かって行きました。彼女たちはそういう意味では向こう見ずなのかもしれません。でも彼女たちには愚直な情熱がありました。だからこそ彼女たちは天使の語る喜びの知らせを聞き、復活の主イエスに出会うことができたのです。彼女たちの愚直な情熱が恐れに同居する喜びの種を芽吹かせました。

     天使の言葉を聞き、駆け出した婦人たちが復活の主イエスと再会します。彼女たちには大きな喜びがあったでしょう。しかしやはりこのときにも彼女たちの心は喜びだけがあったのではありません。主イエスは彼女たちに語っています。「恐れることはない」(10節)。復活の主イエスに出会ったときにもまだ、彼女たちの心には恐れと喜びが同居していました。このときの恐れとは、せっかく主イエスに会えたのに他のところに行ってしまったらもう会えなくなるかもしれないという恐れです。
     彼女たちはこの恐れにとらわれてイエスの足を抱き、イエスの前にひれ伏しました。しかしここでも彼女たちは「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(10節)というイエスの言葉に聞き従い、再び駆け出していったのです。彼女たちは決して恐れを知らない強い人間ではありません。彼女たちも恐れを感じています。でも彼女たちの愚直な情熱が、彼女たちを支配しようとする恐れの殻を貫いて喜びの芽を発芽させたのです。

     わたしたちはふだん、喜びというのものを楽しさや幸せのみと結びつけて考えています。しかし喜びの種はあらゆるところに蒔かれ、楽しさ、幸せはもちろんのこと、悲しみ、痛み、不安、恐れにも同居しています。そしてわたしたちがすぐにできることよりも、練習を重ねてもなかなかできなかったことができるようになったときに大きな喜びを感じるように、わたしたちが恐れや不安、痛み、悲しみの中で出会う喜びこそがいつまでも残るのです。

     マタイの描く主イエスの復活の周辺には様々な感情が渦巻き、特に不安や恐れという感情があちこちに転がっていました。イエスの十字架こそ、絶望、敗北、恐怖しか見出せない経験でした。しかし神さまは、主イエスの十字架という喜びとはかけ離れた場所においても喜びを備えておられました。その喜びに出会い、その喜びに気づいたのは愚直な情熱に突き動かされた女性たちです。このことを心に留めましょう。わたしたちが賢く、要領がいいから恐れの中に同居する喜びを発見するのではありません。ただ愚直に、情熱を持って主イエスのもとに駆け寄るとき、イエスさまや神さまを求めるとき、そして礼拝に集うとき、神がわたしたちに応えてくださって喜びの花を咲かせてくださり、わたしたちは恐れながらも大いに喜ぶことができるのです。
  • 本日の礼拝においてわたしたちは三人の受洗者がそれぞれどのようにしてイエスさまに出会い、洗礼にいたったのか。その喜びを伺うことができました。そしてそれぞれの信仰告白、証を通して、この喜びが決して楽しさや幸せだけから出てきたものではないということをも知りました。みなさんそれぞれの人生は楽しさや幸せばかりではなく、それぞれの方に悲しみや恐れが支配する出来事がありました。喜びなどないと思えるような一時期を過ごされた方もいます。しかしそういう人生の中で皆さんが喜びに出会われ、そのことを自分の口で告白してくださったことに教会全体が喜びを感じています。日曜日に礼拝に集うなんて情熱がないとできません。友人と遊びたいという誘惑や、もっと寝ていたいという誘惑、行くのが面倒くさいという誘惑が絶えずやってきます。でも日曜日は教会に行くというその愚直な情熱が恐れと同居する喜びの種を成長させ、人生を襲うありとあらゆる恐れ、不安、痛み、悲しみを突き破って花を咲かせたるのです。だからこそ本日洗礼を受けた方々がいま実感している喜びは大きな喜びであり、いつまでも残る喜びです。

     今日ここに集まったみなさん一人一人のこれから先の人生にも恐れや不安、痛み、苦しみが襲ってきます。しかしわたしたちは主イエスの十字架と復活の出来事を通して、どんなときにも喜びが同居していることを知らされています。救い主である主イエスが十字架に架けて殺されたという絶望的な恐れの中で、主イエスの復活という喜びに出会ったのは婦人たちです。彼女たちの愚直な情熱が彼女たちを覆う恐れを突き破り、喜びの花を咲かせました。彼女たちの愚直な情熱をわたしたちも持ちたいものです。いつも愚直な情熱を持って礼拝に集い、わたしたちを襲うどんな恐れや悲しみ、苦しみをも突き破る大きな喜びと出会い、この喜びを伝えるためにガリラヤへ、わたしたちがふだん生きている場所へと恐れながらも大いに喜んで走っていきましょう。