「悪知恵から学ぶところ」
2019年5月5日 主日公同礼拝
西岡昌一郎牧師
ルカによる福音書16章1~13節
イエスは、弟子たちにも次のように言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
- このたとえ話に出てくる金持ちの主人は、自分の財産を管理している管理人がそれを着服して、無駄遣いをしているという話を聞き、会計報告を出せと迫りました(2節)。たしかに管理人には不正があったので、自分が管理人を辞めさせられても路頭に迷わないようにと考え、主人から借金をしている人たちを呼び出して、油100パトス(1パトスが23ℓ)を借りている人には返済を50パトスにおまけし、また小麦100コロス(1コロスが230ℓ)を借りている人には80コロスにしました。それぞれ相手に恩を売り、いずれ自分が路頭に迷った時、その人たちから助けてもらえるようにと図ったというのです。
- 通常、少しでも主人に対してまともな会計報告をしようとするのであれば、借金をおまけせずに、少しでも利益を上げて報告しようとするものです。なのに、この管理人は一見したところ主人に損害をもたらすようなことをしました。しかし主人はこの管理人の抜け目のなさをほめたというのです(8節)。ここに最大の疑問と謎があります。
- 当時の福音書の時代でも、このたとえ話が何を意味するのか、いろんな理解と解釈、考え方が生まれたようです。それほどに、このたとえ話の理解が難しかった証拠なのでしょう。このために10節以下の言葉は、いわばその解釈と説明をいろいろと並べています。おそらく10節以下の言葉は、別の場面で語ったイエスの言葉をルカ福音書の著者がここに連結させ、このたとえ話の解説を補完しようとしたのでしょう。でもこれは返って論点が拡散して錯綜としてしまった印象があります。
- このたとえ話に関するイエスの結論は、本来8節の言葉です。つまり「この世の子らは、自分の仲間に対して光の子ら(弟子・信徒たち)よりも賢くふるまっている。」(8節)
- と言うのも、油100パトスを50パトス、小麦100コロスを80コロスにしたのは、そのおまけをした部分が実は利子に当たる部分だったのではないかと言うのが、聖書学者たちの有力な解釈です。つまり、この金持ちの主人は高利貸しでした。レビ記25章36節によると、聖書の人々は利息を取って金を貸すことは禁じられていました。ところが、ここでは高い利子を取っていたわけです。管理人はそれを承知で、その利息分を免除したことになります。
- 主人は管理人に対して、「おまえは何故、勝手に利息を免除したのか。」と問い詰めることができたかもしれません。しかし管理人は主人が最初貸し出した金額に対して損害を与えたわけではありません。しかも管理人の賢いところは、自分のお金ではなく、主人のお金をそのままうまく利用して、借りている人に対して恩を売り、自分が路頭に迷うことにならないようしたのです。これは、ちゃっかりしています。主人からすれば、こんな悪知恵を考え出す管理人に、思わず「あっぱれ」と言わざるを得なかったのでしょう。
- この世の人々には悪知恵を働かせる人がいるものです。もし悪知恵から、わたしたちが何か学びとることがあるとすれば、それはいったい何でしょうか。問題は、その悪知恵を絞ってでも得をしてやろうとするエネルギーが、前向きなエネルギーとなるかどうかです。そのエネルギーが反社会的な方向に注がれているだけならば、それはただの悪知恵です。けれども言葉としては矛盾しますが、良い方向に注がれる悪知恵のエネルギーが、わたしたちの社会を活性化させ幸せにするのです。
- わたしには、あまり大した知恵はありません。でも、その数少ない自分の知恵を、どうせなら信仰生活と福音の働きのために用いたいなあと考えています。貧しくて小さな知恵を、それでも豊かに活かして用いてくださる主の御手の働きを信じたいのです。
- 「ごく小さなことに忠実な者は、大きなことにも忠実である。」(10節)
- このわたしにできるのは、「小さなこと」です。その小さなことに忠実でありたいと願っています。小さなことであれば、何とか、この自分にもできることがあるのかもしれないと思うからです。結局は小さいことの積み重ねです。まずは自分にできる小さなことから始めて行くのです。できないことをやろうとするのではなく、今、自分にできる小さなことからして行く。それも、今日のたとえ話のように、悪知恵を絞ってまでして自分の持つ小さな力を積み重ね、それを主の御業のために用いていただき、主にお仕えしていきたいのです。