「償いきれないことを」
2019年4月7日 主日公同礼拝
西岡昌一郎牧師
使徒言行録13章26~31節
兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。
- 人間は、自分のしてしまったことに対して、ある意味、無責任な生き物です。責任を取ろうにも取れないことをいっぱいしてしまいます。たとえば殺人犯が裁判にかけられ、たとえ死刑判決を受けて死刑になったとしても、それでも殺された人が生きて戻ってくるわけではありません。被害者の遺族たちにとっては、ただやりきれなさが残るばかりです。そこには、どんなことをもってしても、償いきれないものが残ります。
- このように、人間は償いきれないことを繰り返しながら、生きています。どんなに償ない続けたからと言って、そのことによって被害者の人生がすべて元どおりになって、やり直せるわけではありません。償ないようのない問題が山積みとなって、誰も責任を負えずに、長い年月をやり過ごしていまう問題が数多くあります。
- けさの使徒言行録には、イエスを十字架につけた人々の罪が告発されるようにして記されています(27~30節)。死にあたる理由を何も見出せないイエスが、十字架に処刑されたと言うのです。使徒言行録の著者は、罪なきイエスを十字架につけて殺した人間の罪を問題にしています。これはキリストの死そのものを英雄視するためではありません。イエスの十字架はユダヤの宗教指導者とローマの官憲の共謀によるものでありました。使徒言行録の著者はルカによる福音書の著者と同じ人ですが、ルカ福音書一流の言い方で言えば、見捨てられ、失われた者たちを訪ね出し、罪のゆるしと悔い改めとがもたらされるために、メシアは苦しみを受け死んで行ったのです。このための使命の完成が十字架と復活なのです。
- ここには償いようのない人間の罪がキリストの十字架を通してあらわになっています。わたしたちにとって、十字架で死んでいったキリストを他人事のように同情しているような問題ではありません。キリストを十字架の死へと追い込んだ自分たちの罪の問題です。だからキリストのために泣くのではなく、自分自身の罪のために泣けとイエスは言われたのです。(ルカ23:28)
ルカによる福音書23章 28節
イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
- 自分の力で償いきれると思うのは傲慢です。そんなことは不可能なのです。だからこそ、ゆるしが必要なのですし、キリストの一度限りの罪の贖いが必要だったのです。わたしたちの力だけでは償いきれないものを、主は十字架と共に背負ってくださいました。主はわたしたちの罪の深さを何もかも背負いこんで行かれました。
- この主なくしては、わたしたちがゆるされて今あることはできないのです。この「ゆるし」とは、罪を見逃したり、黙認したり、見て見ぬふりをすることではありません。その罪をきちんと認めた上で、しかしなおそれに対する神の罰を、主が代わりに受けてくださったことによってその罰を免除されたのであって、単なる無罪放免なのではありません。罪という借金がなくなったわけではないのです。その返済は免除されましたが、罪という借金をしていたという事実には変わりがないのです。犯した罪の重さは何ら変わらないのです。主はそれを担ってくださったのです。背負いかねる罪の償いを、すなわち、その返済を肩代わりしてくださったのです。それがキリストのゆるしです。
- わたしたちは、この主によって償いきれない罪の返済を免除された罪人、債務者なのです。この恵み深さを知るためには、わたしたちが償いきれない負債の数々と謙虚に向き合うことが大切です。自分の力で何とかなると思っているうちは、十字架のゆるしは、わたしたちの信仰の恵みと感謝になることはありません。自分で償いきれないものを主が償ってくださったからこそ福音なのです。その福音の知らせを、わたしたちが畏れと感謝をもって受け止め、その恵みのいくばくかにでもお応えしていこうとする人生を生きる他ないのです。
- だからこそ自分のダメさ加減、愚かさ加減に、目がさめて、こんな自分であるにもかかわらず、それでもなお主がわたしたちを神の子として愛して招いてくださっているという幸いを、何とかして、わたしたちはこの世に宣べ伝えようとするのです。
- 新年度が始まりました。わたしたちの教会はこの幸いな知らせ、喜ばしき知らせ(福音)を宣べ伝える群れとして、この一年も、その使命を全うさせていただきたいと願うものです。