とどまりましょう

2016年1月24日(日)合同礼拝
寒河江健牧師

ヨハネによる福音書 8章31~38節

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

  • 「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」このフレーズを聞くとわたしがいつも思い出すのは中学、高校の歴史、世界史で習った天動説、地動説の話です。皆さん学校で習ったのを覚えていますか?要するに地球は動かず周りの天体が回っているのか。それとも地球も回っているのかという話です。コペルニクスやガリレオ・ガリレイが登場するまでは天動説といって地球を中心にして天体が回っているという考えが主流でしたが、この2人は、地動説を唱え地球も動いているのだと主張をしたのであり、こっちが正しかった、真理だったわけです。

     「地動説を主張したためにガリレイが異端裁判にかけられ、最終的に自分の主張を撤回して去り際に『それでも地球は回る』といったそうな…」と学校で習ったのを覚えています。実際には天動説か地動説かという論争ははっきりとした宗教対科学といった構図ではなく、教会の有力な司教でも地動説に賛同する人がいたらしいです。ただまぁとにかくこれまで信じられてきたことをただ妄信的に信じようとする、知性を働かせようとせず、反知性主義に陥る「奴隷」が昔から存在していたこと。そして知性を働かせて真理に到達した人たちが、間違った知識に囚われていた人たちを自由にする一翼を担ってきたことを思わされます。

     昔だけでなく現代に至っても、わたしたちは常識や伝統といった限界のある人間の知識を絶対化してしまうときに奴隷になってしまいます。お金がたくさんないと幸せになれないと信じていればお金の奴隷であり、いい大学に入らないといい会社に就職できないと信じていれば学歴の奴隷であり、他人を蹴落とさなければ自分が上に行くことができないと信じていれば競争の奴隷になるのです。お金も学歴も競争も大切ではないと言っているのではありません。それらはあくまで絶対ではなく、わたしたちを支える補助なのだということに気づき、わたしたちキリスト者が生きていく上で最も大切で、絶対と言えるのは神さまであると気づくこと。また神さまは三位一体ですから、イエスさま、聖霊の存在にも目を凝らしていく必要がありましょう。

     35、6節には「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」というちょっと分かりづらい言葉があります。要するに奴隷は家の主人が死んでも自由になることはなく、他の家にまた売り渡されてしまうし、当然主人の財産を相続することもできないという意味です。主人の財産は主人の子どもだけが相続します。しかし主人の財産を相続する子どもはわたしたちを自由にする力を持っており、わたしたちに本当の自由、神の子になって神の豊かな財産である聖霊を分け与えることができる存在です。主人の子どもである主イエスは、彼を受け入れることよってわたしたちキリスト者が本当の自由を手にして神の子とされ、この世の様々なものの奴隷状態から解放してくれるのだと語っています。

     主イエスを信じ、主イエスをすでに受け入れて自由を与えられ、神の子とされたわたしたちですが、それでもなおこの世で生きているうちにいつの間にか何かの奴隷になってしまう危険があります。今日の主イエスの言葉は「わたしの言葉にとどまるならば…」で始まっています。つまり「わたしの言葉にとどまりなさい。」と言っているのですが、このセリフは同時に、「とどまる」ということがいかに難しいことであるかを物語っています。これはもっともなことです。なぜなら時間というのは止まりません。周りの景色や友人、そして自分の身体や心の状態さえもどんどんと変化していきます。止まることなく流れていく時間の中で、わたしたちは新しいものが出てくると何でも飛びついたり、反対に年を重ねてくると新しいものを一切拒否して、かつてのものにとことんこだわるようになっていきます。「最近の若者は…」とか「わたしたちのころはこうだった」というようになっちゃもうおしまいです。なぜならその言葉には中身がないからです。なんとこういう言い回しは日本の民俗学で有名な柳田国男さん曰く、いまから遥か昔、古代エジプトのときからあるフレーズなんだそうです。

     わたしたち人間は大体、若い頃は目新しいものに飛びついて生き、年を重ねてくると今度はかつてのものに固執して新しいものを拒否し、「あの頃は…」「わたしの若い頃は…」という経路を辿る生き物です。両者の間にとどまり、新しいものだろうと古いものだろうと、時間を超えて存在し続ける真理に目を向けて生きたいものですが、それは時間や歴史というものを超越したところにおられる神さまの助けなしには難しいです。わたしたち人間はいつか何かの奴隷になってしまう危険の中を生きています。しかし少なくともわたしたちキリスト者は神の力によって、神の憐れみによって、イエス・キリストによって自由になり、神の子とされます。他のことは忘れてもいいですから、今日はこのことを覚えていただきたいと思います。もう一度言います。わたしたちキリスト者は神の力によって、神の憐れみによって、イエス・キリストによって自由になり、神の子とされます。

     神の子とされる実感をわたしたちは、洗礼を受けたときにもっとも強く感じます。洗礼は悔い改めによって生じると言われますが、ところでこの「悔い改め」という日本語が嫌ですね。「悔い改め」とはわたしたちを奴隷として支配している罪ではなく、わたしたちを自由にする神さまの方向に向きなおすということです。この向き直しの作業は洗礼の時だけでなく、生涯必要となってくるものです。宗教改革者マルティン・ルターは95カ条の提題の第1条においていみじくもこのことを語っています。95カ条の提題第一条「われらの主にして師なるイエス・キリストが『悔い改めよ』と言われたとき、それは、われらの全生涯が悔い改めであることを求められたのである」。

     わたしたちは一度神さまの方向を向いても、時間が経つといつの間にか違う方向を向いてしまっていることがよくあります。信仰の話に限らず、勉強をしているときなんかこれを実感しますね。机に向かって勉強していたはずが、いつの間にか机の上の大掃除大会が始まってしまいます。わたしたちはいつも神さまの方向に向き直るため、イエスさまの言葉にとどまる必要があります。

  • そのために何をすべきであり、何が必要なのでしょう。わたしは千葉教会には、この教会の礼拝にはもうすべてが備わっていることを実感しています。ここは主イエスの言葉にとどまるために最適な場です。なぜでしょう?えっ、教職が語る説教がいい?(笑)。それは皆さんが真剣に礼拝を捧げているからです。礼拝は説教でみ言葉を聞くだけではありません。手に触れて、食べられるみ言葉である聖餐にあずかることでもありますし、讃美歌というわたしたちが神さまに捧げる歌詞や旋律を通して、逆に神さまがわたしたちに語りかけてくださることもあります。讃美歌を歌っていて、「いい歌詞だな、この旋律、すごく癒されるな」と感じた経験を皆さんお持ちでしょう。あるいは神の言葉がイエスさまという身体を持ってこの世に現れたように、わたしたちは礼拝に集ったキリスト者の友の姿を通してみ言葉に出会います。たとえばSさんが、Kさんが、その他ご病気や高齢のゆえに長く礼拝に来られなかった方々がようやく礼拝に来ることができ、嬉しそうに歌っている姿を見るとき、涙を流しながら聖餐に預かっている姿を見るとき、わたしたちは神の言葉が肉となってここにあることを実感します。

     これって本当にすごいことですからね。合同礼拝に集った子どもたちはしっかりと今一緒に礼拝を捧げている人たちの姿を目に焼き付けてください。日曜日のこの会堂は、この礼拝はまさに「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です(エフェソの信徒への手紙1章23節、千葉教会2015年度主題聖句)」。この聖句はオルガンの上にかかっている今年の主題聖句です。教会とは建物ではなく、ここに集まる皆さんお一人お一人であり、礼拝を捧げる皆さんお一人お一人が輝きを放ち、この会堂を神の栄光に満ちた場所にしています。日曜日の教会にはありとあらゆるところで神の言葉が具体的に実現しています。子どもたちや若い人たち、そして新来者や再来者にもこの千葉教会の信仰の有り様を知っていただきたいので、少し紹介します。

     まず週報をご覧ください。礼拝式順の奉献のところに3名の方のお名前が載っています。毎週当番の方が変わるのですが、次週の当番のところを見ると「(奉献と受付)」となっています。ここに載っている方はこの後行われる献金の際にかごを持って移動するお役目を担うんですが、それだけではありません。礼拝が始まる30分前以上、遅くとも10時には教会に集まって別館の受付のところや会堂の正面入り口や裏口に立っておられます。そうやってあいさつと案内とするんですね。千葉教会は敷地が入り組んでいてとても分かりにくい教会です。道から会堂は見えず、会堂への道も京都の鰻の寝床のようです。さらに駐車場は裏手にありますし、受付は会堂ではなく別館にあります。こういう複雑で分かりにくい弱点をこの千葉教会は、人の手で補っています。初めて教会に訪れた人が駐車場の方から、あるいは別館ではなく会堂に通ずる細い道から入ってこられたら、「おはようございます。受付はこちらの建物にあります。」といって案内をするわけです。雨の日も、風の日も、真夏でも真冬でも、欠かすことなく3名の方がそうやって日曜日に礼拝に来る人を迎えています。

     千葉教会員の平均年齢は67.7歳だそうです。しかし実際礼拝に来られている方はもっと高齢ですね。若い会員のなかには関西やタイの大学や職場にいてそちらで礼拝を守られている方もいます。つまり平均年齢70歳を超える方々がこのようなお役を担って、礼拝に来る人をサポートしています。これってほんとにすごいことです。他にも例えば週報に「聖研9・15」というのが載っています。日曜日の朝9時15分に集まって信徒だけで聖書を読み、神さまが自分たちにどんなメッセージを発信しているのかを話し合い、分かち合う会です。「朝から難しい話をしてるんでしょ。」と思われるかもしれませんがそうではなく、この会の参加者はまさにみ言葉に生きているのです。
     最近はもう葉っぱが木からほとんど落ちましたが、つい最近まで教会の前の道は落ち葉でいっぱいでした。そしてその時期に「聖研9・15」に参加される方で9時前に到着される方々が、落ち葉の掃除をしてくださっていました。90歳になるOさんが箒を持って年末の真冬に落ち葉掃除をしているのを見たときは頭が下がりました。そして同時に「聖研9・15」に参加されている人たちが聖書をただ研究し、学んでいるだけでなく、神の言葉を体現していることを実感し、改めて千葉教会っていい教会だなぁと思いました。「教会とはキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。これ以上紹介するととても長くなってしまいますのでこの辺にしておきますが、千葉教会を見渡せば神の栄光をところどころに感じることができます。ぜひ、後は皆さんで神さまの言葉が実現している場所を探し、その栄光の光に浸ってください。満喫してください。

     そのような現場に遭遇してつくづく思うのは、牧師というのは本当にありがたい仕事だなぁということです。牧師は教会に遣わされ、この教会において神さまの言葉が実現している現場を最も多く見ることのできる人物です。わたしは洗礼を受けるタイミングと牧師を目指すタイミングが一緒でした。なんでだろうと考えたんですが、きっと神さまが「こいつは牧師にならなかったらろくでもない信徒になってしまうから、最も多くわたしの言葉に出会うことのできる牧師にしよう」と考えて、洗礼と同時に召命しょうめいという牧師になる道を備えてくださったのだと思います。あるアメリカ人牧師が説教で、これはカトリック的な表現ですけど、信徒から司教に叙階じょかいされるときに必ず主教がやることを紹介していました。その主教はこれからいよいよ聖職者になる人の隣に行ってこう囁くんだそうです。「神があなたを祭司にお召しになったのは、あなたを信徒のままにしておくと、とんでもないことが起こるとお考えになったからですよ(笑)」。まさにアーメン!わたしにぴったりの言葉だと感じます。牧師はもっとも近くで神の言葉が実現する現場を見ることができ、たくさんの喜びや恵みをいただけます。そりゃ年収1000万とかは望めませんけど、それ以上の喜びや恵みをいただける仕事ですから、若い方々もぜひ将来なりたいものの候補に牧師を入れておいてくださいね。

     神さまの言葉、イエスさまの言葉には力があり、私たちキリスト者一人一人がかつても今もその言葉によって生きており、活かされています。そして私たちを生かす神の言葉がこの千葉教会のいたるところに満ちています。このことを皆さんぜひ誇りに思ってください。そのことに気づいてもっと喜び、感謝を持って生きてください。礼拝を捧げてください。子どもたちや新来者、再来者にもきっとわたしたちを生かす神の姿が見えているはずです。ここには本当に神さまがいらっしゃるということを体感されるはずです。一番近くで一番多く見ているわたしが言うのですから間違いありません。

  • わたしたちは洗礼を受けてキリスト者となり、キリストの自由を生きることができるようになりました。しかしわたしたちはまだこの世で生きていますから、気を抜くと何かに囚われて、奴隷になってしまいます。主イエスの言葉にとどまることの難しさを実感しています。でもわたしたちは主イエスの言葉にとどまるために特別なことをする必要はありません。なぜなら教会に来たら、礼拝に来たら、ここでは神の言葉が体現され、神の栄光の光に満ちているからです。原点に立ち返る、神さまの方向を向き直るには礼拝が一番です。礼拝という場において、わたしたちを惑わすこの世の諸々の力を超越した神の力が働いて、わたしたちを主イエスの言葉にとどめてくださいます。洗礼を受けたばかりの方、いま洗礼準備中の方、そしていままさに停滞中の方、心にとどめてください。礼拝こそがキリスト者の原点であり、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」です。洗礼後に信仰が停滞したときこそ、答えが見えなくなっているときこそ礼拝に集い、様々な角度でもってこの千葉教会に触れて、神さまが働かれていることを感じてください。

     神さまの栄光を体感したわたしたち、感謝を持って礼拝を捧げましょう。そして神さまからたっぷりと力をいただいて、この一週間も主イエスの本当の弟子として、キリスト者として歩みましょう!祈ります。

     主なる神さま。礼拝においてあなたからいただく計り知れない恵みと喜びに感謝いたします。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。わたしたちをこの礼拝に招いてくださり本当に感謝します。わたしたちは神さまの子どもです。あなたから豊かな財産を分け与えられていることを感謝します。この一週間もあなたの言葉にとどまり、主イエスの本当の弟子として歩みだそうとしています。わたしたちに真理を与え、わたしたちを奴隷として支配しようとするこの世のさまざまな力から解放し、キリスト者の自由を生きることができますように。この世の奴隷となって苦しんでいる人の所にわたしたちを遣わし、キリストの自由を、福音のよき知らせを届ける器として用いてください。この祈りを、イエスさまのお名前によってお捧げします。アーメン