「高い山に登る」

2019年7月7日 主日公同礼拝
西岡昌一郎牧師

マルコによる福音書 9章2~8節
六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

  • わたしは、北海道にいた頃、大雪山の旭岳に出かけました。車でロープウェイ乗り場まで向かい、そこからロープウェイで「姿見の池」という登山道の入り口まで行きました。そこでは旭岳の頂上がまっすぐ目の前に見えます。でも、ひとたび霧や雲に包まれますと、あっという間にその姿がわからなくなるような、とても神秘的で雄大な光景が広がっています。この山から遠く見渡せば、はるか向こうに旭川の町がある上川平野が見えます。わたしは遠くに見える自分が暮らす町を眺め、つくづくと自分は何と小さな存在だろうと感じました。大自然の中に身を置くと、くよくよ、いらいら、ささいなことで一喜一憂したり腹を立てたりしている自分に気づきます。広く大きな神さまの世界の中に抱かれている自分に気づき、内向き志向になっている自分の姿を知らされます。日常から離れて、高い山の上から自分を見つめる経験は、いわば宗教的な体験なのだと思います。
  • けさ、取り上げました聖書の箇所においても、弟子たちはイエスと共に高い山に登っています。この山はガリラヤ湖南西のタボル山とも、またフィリポ・カイザリアの北東にあるヘルモン山とも言われますが、くわしくはわかりません。。いずれにせよ、弟子たちはイエスと共に、この高い山で不思議な体験をしました。それは「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、(略)エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(2~4節)というのです。服が真っ白に輝くというのは、神聖さを表現したものです。しかも7節にある「雲が現れて彼らを覆い」というのも、その神聖な場面に彼らも立ち会ったという意味を持ちます。弟子たちも、白い雲の中に包まれ、下界では経験しなかった不思議な瞬間を過ごしたのでしょう。イエスさまが太陽の光の輝きと雲の中に包まれていく様子から彼らはとても幻想的で神々しいものを感じたのではないでしょうか。
  • 4節で、イエスと語り合っていたエリヤとは旧約の預言者、モーセは十戒(律法)を伝えた人です。つまりエリヤは預言者の代表、モーセは律法の代表を意味しています。したがってイエスがモーセとエリヤの前に立つことで、弟子たちは旧約の律法と預言という神の言葉を具現しているイエスを見たのです。
  • キリスト教の教理からすれば、イエスは神の言葉の成就であり完成者としての神の子です。だからマルコ福音書では7節で「これはわたしの愛する子。これに聞け。」と記したのです。イエスから神の言葉を聞く。もっと言えば、イエスご自身が神の言葉であり、その神の言葉が一人の人間となってまでして生きてくださったその姿を通して、弟子たちはイエスから神の言葉を聞いていたのです。この神の言葉は、わたしたちにとっては「信仰と生活の誤りなき規範」、すなわち信仰と生活のものさしを意味します。
  • 「社会とは別のものさしがあるからこそ、人は救われる。社会通念と同じ価値体系しか持たないのであれば、宗教の存在意義はほとんどなくなってしまう。」(釈撤宗)
  • 社会通念や常識にどっぷりと浸かっていますと、わたしたちはいつしか独り相撲のように自分で空回りすることがあります。自分のことでいっぱいになり、「どうして、みんなわかってくれないの?」と苛立つのです。最も孤独な瞬間です。そういう時は、それ以上、空回りせずに、そんな自分をもっと大きな視野の中で見つめ直してみることが必要です。つまり日常とは異なった別のものさしの中で自分をとらえ直してみるということです。
  • 凝り固まった自分の殻の中で内向きに自分を考え続けることを一旦やめる。もっと広々とした世界、それこそ高い山にでも登ってみないと気づくことのない世界、すなわち神さまの用意してくださっている世界の中で自分を見つめるのです。信仰というもう一つのものさしの中で自分を受け取り直し、自分が今置かれた状況や生活の中で、それでもなお与えられている神さまからの使命を見出すのです。こんなちっぽけな自分が、それでも、この自分でなければ担うことができない神さまからの使命があり、そのかけがえのなさに気づいて、神を見出すのです。「あなたは、あなたらしくあれ。顔を上げて生きて行きなさい。」とあなたの背中を後ろで支えて、押し出してくださる主の声を聞くのです。
  • 「これは、わたしの愛する子。これに聞け。」(7節)弟子たちは、この高い山での不思議な経験を通して、そのような形で、イエスから神の救いの言葉を聴いていたのです。