主の言葉が示される
2018年5月6日(日)公同礼拝
西岡昌一郎牧師
サムエル記上 3章10~21節
主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」主はサムエルに言われた。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない。」サムエルは朝まで眠って、それから主の家の扉を開いた。サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。エリはサムエルを呼んで言った。「わが子、サムエルよ。」サムエルは答えた。「ここにいます。」エリは言った。「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」サムエルは一部始終を話し、隠し立てをしなかった。エリは言った。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された。
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- けさ、読んだ3章のお話は、少年サムエルが、夢で神さまの声に聞き、神の言葉を聞いていく有名な場面です。これはやがてサムエルが王に対する神の言葉を語る預言者となっていく道筋となりました。サムエルは、この主の言葉を聞いたことで、王国時代を導くための預言者としての働きを負わせられます(20節)。母ハンナの祈りを受けたサムエルは、神の御言葉によって、新たな時代を切り開いて導こうとしているのです。
これに対して、サムエルが仕えていた祭司エリの存在は、いわば、それまでの古い時代を象徴する立場として描かれています。3章1節によれば、その頃、主の言葉が人々の上に臨むことは少なかったとあります。この意味するところは、人々の上に主を信じる信仰心が低調であったということでしょう。と言うのも、2章12節以下を読むと、エリの息子たちは、祭司の仕事を継ぎながらも、不正を働いて神への捧げ物を横領して文字通り私腹を肥やしていたのでした。息子たちの不正と不道徳に気がついて、父親のエリがたしなめても、彼らは一向に耳を貸そうとしなかったとあります(2章22〜25節)サムエル記上 2章22〜25節
エリは非常に年老いていた。息子たちがイスラエルの人々すべてに対して行っていることの一部始終、それに、臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていることも耳にして、彼らを諭した。「なぜそのようなことをするのだ。わたしはこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。 息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、わたしの耳にも入ったうわさはよくない。 人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう。」しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった。主は彼らの命を絶とうとしておられた。。ここにエリの信仰的な指導力、影響力が弱くなってしまっている現実が表されているのです。これは明らかにひとつの時代の終わりを暗示させるものでした。
- けさ、読んだ3章のお話は、少年サムエルが、夢で神さまの声に聞き、神の言葉を聞いていく有名な場面です。これはやがてサムエルが王に対する神の言葉を語る預言者となっていく道筋となりました。サムエルは、この主の言葉を聞いたことで、王国時代を導くための預言者としての働きを負わせられます(20節)。母ハンナの祈りを受けたサムエルは、神の御言葉によって、新たな時代を切り開いて導こうとしているのです。
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- このために、神の言葉は、祭司エリに対してではなく、少年サムエルに対して語られ始めました。みなさん、ご承知のように、神は都合三度、サムエルに呼びかけました。神は、エリではなくサムエルへと、神の御言葉をもって、ご自身を示されたのでした。エリに象徴される古い時代が終わり、サムエルによって担われていく新しい時代の始まりが、このような形で表されているのです。ここで大事なのは、主の言葉が示されることです。しかし、そのサムエルでさえ、最初、自分に対して呼びかけている神の声に気がつきませんでした。エリが自分を呼んだのだと勘違いしていたのです(5、6、8節)
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- この点、わたしたちに対する神さまからの呼びかけの言葉は、当初、それが神の言葉だとはなかなか気がつきません。それが神からの声であることに気がつかず、やり過ごしているのです。神の言葉は、一見、何気ない出来事や誰かの言葉のようにして聞こえてくることがあります。しかも、それが実は神の言葉であることに気づくのに時間がかかります。
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- 10節にもあるように、神は「サムエルよ」と名前を呼んで語ります。紛れもない、このサムエル自身に対して語られている言葉です。主は、わたしたちの名を呼ぶ方です。だから神さまからの言葉は、この自分の名を呼んで語られる自分のための言葉なのです。そうしない限り、どんな神の言葉もおよそ他人事に留まり、そこに自分が除外されているようでは、それはもはや神の言葉ではありません。あくまでも神の言葉は、この自分のための言葉です。自分の名前が呼ばれていると受け止めてはじめて、聞いていくことのできる言葉です。どれだけ熱心に聖書の言葉を読み、どれだけ一生懸命礼拝で牧師の説教を聞いていても、どれだけ熱心に祈っていても、それだけでは神の言葉に出会うことはありません。どんなに人々の心を打つような美しい言葉、感動的な言葉を聞いたとしても、それが自分のための言葉として聞かれない限りは、神の言葉を聞いたことにはなりません。
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- 19節に「主はサムエルと共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。」とあります。わたしたちに対して語られてくる神の言葉もまた、その一つたりとも地に落ちることなく、わたしたちの生活の中で肉体となり、体験となって生きて働く言葉となることを願ってやみません。神さまの言葉は、わたしたちの体と生活を通して体験となって働いていくことを求めています。つまり、信仰がわたしたちの生活となり、もっと言えば人生そのものとなるということです。神さまの愛は、わたしたちの生活と人生を通して具体的に現されていくものだからです。
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- 「サムエルよ。」(10節)
この新たな一週間、神さまから、わたしたちに自分の名前が呼ばれるのを待ってみましょう。
- 「サムエルよ。」(10節)