救いの系譜につながる
2019年1月6日(日)第1公同礼拝
西岡昌一郎牧師
マタイによる福音書1章1~17節
アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。
- この系図に出てくる人物は、旧約聖書の中でも有名な人もあれば、名前はあるものの、どういう人なのか、ほとんどわからないような人もいます。13節以下のアビウドという人から8名の人は、旧約聖書に名前すら見当たらない人たちです。この系図は、単なる血統主義による系図ではありません。18節以下を見るとわかるように、イエスは聖霊によってマリアに身ごもったのであって、ヨセフを直接の父としたのではありません。そうであれば、マタイ福音書は、血のつながりだけで、この系図を書いたわけではなかったということです。
- しかも、この系図でちょっと変わっていると思われるのは、男ばかりの名前の中に、5人の女性の名前が出て来る点です。この女たちは、いずれも「わけあり」の女性たちでした。彼女たちをめぐって、それぞれ、きわめて衝撃的な出来事が起きたという点で共通しています。この5人とは、3節のタマル、5節のラハブとルツ、6節のウリヤの妻(バトシェバ)、そして16節のマリアです。彼女たちの多くは当時の社会や男たちによって翻弄される人生を歩みました。おしなべて幸せではなく、苦労や行き違いの多い人生でした。ラハブとルツは異邦人・外国人でした。またラハブは遊女でしたし、タマルは遊女になりすましました。そのタマルとバトシェバは本来夫ではなかった男との間に子どもを産みます。マリアもまた未婚のうちにイエスを宿して、冷たい視線を投げかけられたはずです。一言で言えば、スキャンダラスな立場に置かれてしまった女性たちでした。
- たとえばアブラハムの妻サラやイサクの妻リベカのような女性ならば、立派な女性たちで、この系図に名前が記されるのはもっともな話だと思えるかもしれません。しかし、この系図にはそのような女性たちではなく、あえて波紋をもたらすような女性たちの名前が記されているのです。
- しかしマタイ福音書は、そのような女性たちの存在を抜きにしては旧約の歴史は成り立たなかったし、イエス・キリストの救いの約束が成就することにもならないと考えました。そうでなければ、これらの女性たちの名前を記す必要もありません。神の救いの歴史は、このような女性たちを抜きにして成り立たないということを暗示しているのです。
- その意味では、神さまは実にいろんな人たちを用いてその御業を行なわれます。人間のもつれきった糸を忍耐強く、丹念に手繰り寄せるようにして、神の救いの歴史にして紡ぎ出していくのです。わたしたちの思いを越える意外な方法で、救いの物語は展開して行ったのです。神はそれぞれ名前を持ったわたしたち人間を通して救いの御業を行います。一人ひとりの名を呼んで集めて下さり、救いの計画を進めるのです。その意味で神は人を追い散らすのではなく、呼び集めながら御業を行います。そして、わたしたちも、この系図に表された救いの系譜に連なるものであります。わたしたちも、その名を呼ばれて、救いの物語に加えられ、主の御業のために用いられて行くのです。
- きょうの系図を見ていると、主はわたしたちをも救いの御業のため必要不可欠な登場人物として呼び出してくださり、このマタイ福音書の系図の系譜に連なっていくようにとの、主の声が聞こえてくる思いがいたします。