その声を知っている

2018年6月3日(日)公同礼拝
西岡昌一郎牧師

ヨハネによる福音書10章1~6節

 
「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった。

  • イエスは、人間と主なる神との関係を羊と羊飼いにたとえました。このたとえは、聖書が人間をどう理解しているかという点で非常に示唆的です。日本社会では羊はさほど身近ではないかもしれません。でも聖書の世界では、古代バビロニア以来、羊と人間のとの付き合いは、何と11,000年の歴史があると言われ、羊は非常に身近な生き物だったのです。
  •  

  • 3節には「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」とあります。羊に名前がついているのですね。一匹一匹、その名前があるのです。十羽ひとからげではありません。あるいは番号で呼ばれるのでもありません。一匹一匹の顔を覚えて、その名前を呼ぶのです。大切なひとつひとつとして数えられているのです。わたしたちの神さまも、わたしたち一人一人の名を呼んで招いてくださる方です。つまり、他にかけがえのない一人一人として目をとめ、愛してくださる方です。
  •  

  • 現代の社会は匿名性の強い社会です。お隣りに住んでいる人の名前や顔を知らないで生きていくこともできる社会です。それは確かに、気楽かもしれませんが、そのぶんだけ希薄な人間関係の中に生きざるを得ません。だから匿名社会は無責任になったり、過酷な形で孤独に生きる社会でもあったりします。しかし、主はわたしたち一人一人の名を具体的に呼んでくださいます。そうなると匿名の中に自分を隠しておくわけにはいきません。群れているだけで、その中に自分を埋没させ、自分という個人を曖昧にはできません。あなたはどうなのかと、一人一人の主体が問われます。その意味で信仰の生活とは、一般論や原則論ではありません。他の誰でもない、まぎれもなく、このわたしのための、この自分自身のための呼びかけの声として主の語る声を聞く世界なのです。
  •  

  • 「羊はその声を知っているので、ついていく」と4節にあります。わたしたちの信仰は主の呼びかけの声に聴くことから始まります。その点で、わたしたちは主の声を知っているでしょうか。主の声を聞いているでしょうか。その声は聖書の言葉を通して、わたしたちの生活のいろんな場面において聞こえてきます。その声を自分自身に語られた言葉として聞くのが信仰です。しかも、わたしたちがその主の声を知っているということは、ただ聞いたというだけで終わるものではなくて、その声に応えて従っていくことです。主の呼びかけの声の中に、具体的な自分の名前が呼ばれていることを聞く。それがわたしたちの信仰なのです。
  •  

  • 神さまの呼びかけの声の中に、自分の名前が呼び出されているのを聞いた時には、アーメンと応えて、その言葉に従いましょう。主の言葉は、ただ聞き流すだけで終わりません。あるいは感動しているだけで終わりません。主の言葉は、それに聞いて従うことを求めます。
     「自分など、いてもいなくても同じだ」とか、「おまえの代わりなど、いくらでもいるんだ」とか、一人一人の存在が限りなく軽く扱われるような時代の中にあって、わたしたちの主は、わたしたち一人一人の名を呼んでくださる方です。あなたは大事な人、あなたが必要なのだと言って、このわたしを招き、必要としてくださる方です。この主の声を本気で受けとめていくところに、わたしたちの信仰の喜びはあるのです。
  •  

  • 「羊はその声を知っている。」(4節)
     みなさん、あなたは本当に、その主の声を知っていますか。