招きに応える
2018年9月2日(日)公同礼拝
西岡昌一郎牧師
マルコによる福音書1章16~20節
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
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イエスはご自身の救いの
御業 を行なうために、弟子たちを必要とされました。イエスは、わたしたち人間の力を用いながら御業を行なわれます。しかも、注目したいのは、決して優秀で能力のある人たちだけを選んだのではありません。実際には、つまずきやすく弱さを持った弟子たちが多かったのです。イエス自身のことを十分に理解しているとは言えない者たちが、それでも弟子たちに選ばれました。最後にはイエスを裏切ることになるユダですら、弟子の一人に加えられていたのです。一番弟子と言われる今日の箇所に登場するペトロも、主を三度知らないと言って、主を見捨てるような弱いところがあったのです。 - つまりイエスの目ざした弟子の集団は、優秀なエリートの集団ではありませんでした。欠点のある者、問題を持った者、小さな力しかない者をも、それでもなお、あえて必要とされた集団だったのです。そうした者が、なお招きを受けてイエスの御業に用いられる者となっていったのです。
- 破れや弱さを持ったわたしたちであることを十分にご承知の上で、しかし主はなおもわたしたちを必要としておられます。完璧でなくてもよい、完全でなくてもよいから、それでよいから、わたしのもとに従って来なさいと招かれる方なのです。
- それでは、わたしたちは、その主の招きをいったいどこで聞くべきでありましょうか。どこから、その声はわたしたちに響いてくるのでしょうか。ペトロやアンデレがイエスの招きの声を聞いたのは、彼らの仕事場でした(16節)。つまり彼らは漁師でしたから、ガリラヤの湖で、漁をするために網を打っている日常の場だったのです。日常の場、仕事をしている働きの場の中で彼らはイエスの招きを受けたのです。これはいったい何を意味することでしょうか。
- それは日常の生活とその働きの場の中で、主の招きの声を聴くことができるということです。キリスト教信仰における一つの大きな問題は、日常生活と信仰生活とが二元化して、別々になってしまうということです。つまり信仰は信仰、日常生活は日常生活と、お互いが分離してしまうのです。信仰がアクセサリーのようなものになってしまうのです。すなわち日曜日だけ信仰という名のアクセサリーを身につけて教会に出かけるものの、教会から家に帰って来ると、そのアクセサリーをはずして小物入れの引き出しにでもしまっておいて、日常の生活はまったく異なった装いで生きるような二元論的な生活、もっと言えば建前と本音がはっきり分かれるような生活です。
- ここで言う「主の招きに応える」とは、わたしたちの日常生活のすべての営みが、主なる神さまのために用いられるということです。すなわち、自分にとってではなく、神さまにとって意味を持つということです。それは言い換えれば、自分の信仰が自分の生活そのものになるということでもあります。主の招きの声は、他の誰でもない、まぎれもないこのわたしのための声であると受けとめることができるようになり、これに応えようと立ち上がろうとするところに、主の招きに応える信仰生活の豊かさがあるのです。