この道を行く
2019年2月3日(日)第1公同礼拝
西岡昌一郎牧師
マルコによる福音書10章46~52節
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。
- わたしたちの信仰は、主の道を歩むことです。この道は決して平坦ではありません。山あり、谷ありの、険しい人生の道そのものです。険しい人生の道を胸突き八丁で歩かなければいけないこともあります。時には、本当にこの道でよかったのかと、不安になり、道を迷うこともあるでしょう。もっと違った人生を歩くことができたのではないかと後悔する人もいるのです。確かに一つの山を登るにしても、いくつか道があって、登山口によってそれぞれ違ったルートがあります。信仰の道もそうです。いろんな宗教、いろんな信仰の道がある。それぞれ、どれも素晴らしい道なのかもしれないし、場合によっては獣道みたいに、人を欺くような道もあるかもしれない。道はさまざまにある。しかし、わたしたちに与えられている人生は一回かぎりの人生です。やり直しはできない。一度限りの人生ですから、わたしたちはさまざまな信仰の道をいつまでも、あっちこっち寄り道するわけにはいかない。そうなれば、ここはひとつ、このキリストにある道を歩いてみよう。そして、この道を行こう。この道を歩む中で、わたしたちが喜びも悲しみも共に体験することによってはじめて、学び取り、教えていただき、辿りつかせていただくことのできる恵みを究めよう。そして、この道を歩んで悔いなしと言える人生の歩みを見つけたならば、わたしはその人はすでに救いにあずかっているのだと思うのです。
- わたしたちの日常の人生では、わたしたちを煩わせ、わたしたちなりの計画や見通しを大きく狂わせてしまったり、邪魔をしたりするような出来事に遭遇します。ふりかえって見て、無駄なことばかりを繰り返してきたのではないか、あるいは自分のこれまでの人生がすべて台無しになったのではないかと思っている人もいらっしゃるかもしれません。しかし、一見その無意味で台無しだと思われるようなことが決して無駄なことの寄せ集めなのではなく、わたしたちに対して自らの人生を深く問い直し、考え直させる神からの呼びかけの声として、それを受けとめ、聴くことができるようになるのです。
- バルティマイにとって目が見えずに不自由したことが、実はマイナスではなく、彼の人生における渇望を満たす魂の叫びとして、キリストの下に導くプラスの力となりました。もしそれがなかったなら、彼がイエスと出会うチャンスはなかったかもしれません。同じように、わたしたちにとっても、一見マイナスと思われることが実は深いところで自分の人生を豊かにする力を秘めています。心傷み、悩むことがなかったなら、深く人生を考えることもなく通り過ぎていたかもしれないのです。何がわたしたちの人生を幸いするかわからない。
- 「生きていてよかった 生かされてきてよかった あなたに めぐり逢えたから」(相田みつを)。このキリストとのめぐり逢わせによって、自らの人生を生きていて良かったと喜べるには、やはりわたしたち人並みの苦労は必要でしょうし、時には悩み苦しみ、ジタバタするしかないのでしょう。それでも最終的には「あなたにめぐり逢えたから」と自らの人生を振り返り、それまでの無駄なことも、みなすべて主の道を行くために必要なものだったと、受け取り直す。これ以上の幸いはないし、そこに主の救いはあるのです。そして「この道を歩いてよかった」と、わたしたちも主を喜ぶ人生を歩みたいのです。
- 「この道を行く」。きょうのバルティマイのように、人生の途中からでも、決して遅くはありません。この道を歩こう。そう思える人は、きょう、主にとらわれ、救いにあずかった人なのです。