居場所を見つける

2018年12月2日(日)待降節第1主日公同礼拝
西岡昌一郎牧師

ルカによる福音書19章1~10節

イエスはエリコに入り、町を通っておられた。 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

    • クリスマスに備える待降節・アドベントを迎えました。教会暦によると待降節は12月24日までです。25日の降誕日から降誕節が始まり、1月6日の栄光祭(公現日)までが、いわゆるクリスマス期間です。したがってクリスマスの恵みと感謝のうちに一年を終えて、新しい年を迎えるのです。この時にわたしたちは教会の本当のクリスマスをお知らせしなければなりません。
    • 本当のクリスマスと言いました。17世紀のドイツの宗教詩人であったアンゲルス・シレージウスという人は、「キリストが何度ベツレヘムに生まれても、あなたの心の中に生まれなくては、あなたの魂は捨てられたままである」と言いました。クリスマスとは、この自分自身のためにキリストが生まれてきてくださった出来事を経験することです。その意味では、クリスマスは2000年以上も昔の話なのではなく、今のわたしたちのための救いの出来事です。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(ルカ2章11節)
    • きょうの聖書のザアカイは、古代ローマ帝国の税金を取り立てる徴税人のボスでした。権力に物を言わせ、支配国の税を取り立てるだけではなく、不正な取り立て方で私腹を肥やしていました。ですから、同じユダヤ人たちからは嫌われて仲間はずれでした。彼は裕福でしたが、幸せとは言えない人でした。
    • ザアカイにとって、もう一つの問題は背が低かったことです。嫌われ者の上に背が低い。でも、それが結果的にはザアカイにとって幸いでした。イエスが町を通りかかると聞いた時、ザアカイはイエスがどんな人か一目見ようと通りに出てみました。ところが沿道には人垣ができており、これではイエスが見えません。人をかき分けて前に出ようとしても、みんなが、あのザアカイだと気づけば、意地悪されて通せんぼされたかもしれません。しかしザアカイはあきらめませんでした。むしろ逆に知恵を働かせました。一足先回りして少し離れた道端にあるイチジク桑の木に登りました。そこから高みの見物です。
    • もし、ザアカイが仲間はずれにされることなく、普通に幸せな人であれば、これほどのことはしなかったでしょう。ザアカイにとっては、不利な条件でしかなかったものが、ここでは逆に幸いして、イエスと出会うチャンスを開いたのです。一見、彼にとってマイナスでしかないものが、イエスとめぐり逢うという点においては無駄にならず、プラスに作用したのです。このようにイエスという人は、マイナスをプラスに変えることのできる方なのです。
    • イエスは、イチジク桑の木に登っているザアカイを見ると、「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と語りました。それは、もう大丈夫だから安心して降りて来なさい、という意味合いです。追い詰められて逃げ場を失ってしまったような人に対して、「大丈夫だよ、安心して降りて来なさい。」と声をかけているように思えるのです。「あなたの戻るべき場がここにあるよ。」と言って受けとめてくれる主のまなざしを感じます。
    • 今、そのようなイエスの慰めといたわりに満ちた言葉を必要とする人がたくさんいます。イエスの下にこそ、帰り着くべき場があり、みずからの居場所を見い出すことができる。ザアカイが経験したことは、イエスの下に自分の居場所を見つけ出すことができたということでした。ザアカイの中に救い主がやって来てくださったのです。これが、ザアカイにとってのクリスマス体験と言うべき出来事だったのです(9節)。