平和の道具として
2018年8月5日(日)平和主日公同礼拝
西岡昌一郎牧師
サムエル記上12章6〜19節
サムエルは民に話した。「主は、モーセとアロンを用いて、あなたたちの先祖をエジプトから導き上った方だ。 さあ、しっかり立ちなさい。主があなたたちとその先祖とに行われた救いの御業のすべてを、主の御前で説き聞かせよう。 ヤコブがエジプトに移り住み、その後、先祖が主に助けを求めて叫んだとき、主はモーセとアロンとをお遣わしになり、二人はあなたがたの先祖をエジプトから導き出してこの地に住まわせた。 しかし、あなたたちの先祖が自分たちの神、主を忘れたので、主がハツォルの軍の司令官シセラ、ペリシテ人、モアブの王の手に彼らを売り渡し、彼らと戦わせられた。 彼らが主に向かって叫び、『我々は罪を犯しました。主を捨て、バアルとアシュトレトに仕えました。どうか今、敵の手から救い出してください。我々はあなたに仕えます』と言うと、主はエルバアル、ベダン、エフタ、サムエルを遣わし、あなたたちを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたたちは安全に住めるようになった。 ところが、アンモン人の王ナハシュが攻めて来たのを見ると、あなたたちの神、主があなたたちの王であるにもかかわらず、『いや、王が我々の上に君臨すべきだ』とわたしに要求した。 今、見よ、あなたたちが求め、選んだ王がここにいる。主はあなたたちに王をお与えになる。 だから、あなたたちが主を畏れ、主に仕え、御声に聞き従い、主の御命令に背かず、あなたたちもあなたたちの上に君臨する王も、あなたたちの神、主に従うならそれでよい。 しかし、もし主の御声に聞き従わず、主の御命令に背くなら、主の御手は、あなたたちの先祖に下ったように、あなたたちにも下る。 さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前で行われる偉大な御業を見なさい。 今は小麦の刈り入れの時期ではないか。しかし、わたしが主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。それを見てあなたたちは、自分たちのために王を求めて主の御前に犯した悪の大きかったことを知り、悟りなさい。」 サムエルが主に呼び求めると、その日、主は雷と雨を下された。民は皆、主とサムエルを非常に恐れた。 民は皆、サムエルに願った。「僕 たちのために、あなたの神、主に祈り、我々が死なないようにしてください。確かに、我々はあらゆる重い罪の上に、更に王を求めるという悪を加えました。」
- 8月の時期は、かつての戦争の時代を思い起こし、今一度戦争の惨状の記憶を新たにしながら、二度と戦争の過ちを繰り返さないことを決意し、またそのために祈り、さらに具体的な行動をしていく時です。みなさんも、この一ヶ月、キリスト者としての平和への祈りと行動のために、それぞれが具体的にできることを努めていただきたいと願っています。
- きょうは、サムエル記上12章を読みました。この箇所で感じることは、「国家」(王)とわたしたちとの関係です。国家は国民の財産と安全を守るものと考えられていますが、果たして実際はそうでしょうか。もっと有り体に言えば、軍隊は国民の命を守るためにあるのかと言い換えて考えても良いでしょう。軍隊の目的は、国家の体制を守ることです。国民の命を守るためではありません。軍隊、軍事力によって国家体制が維持されることで、結果的に生き伸びることのできる命もあれば、逆にその犠牲とされてしまう命もあるのです。むしろ、今憲法改正を求める人たちは、国が国民の命を守るのではなくて、国民が国を守ることを義務づけようとしています。換言すれば、自分たちの命を犠牲にしてでも国を守れというわけです。これは、いつか来た道です。
- サムエル記が描くのは、古代イスラエル王国誕生の時代です。王国が生まれるということは、王が即位して民を治めるということです。しかし、それは具体的には何を意味するのかと言うと、8章10節以下に書いてある通りです。王のために自分たち息子や娘が徴用されて、兵隊になったり、武器や軍事物資を作らせたり、あるいは自分たちの土地や畑が没収されたり、穀物などの収穫物を徴収されたり、奴隷や羊などの財産をも徴収されたりすることを意味しました。つまり他国と戦うことのできる軍隊への協力です。
- けさの12章12節以下を見ると、イスラエルの民はアンモン人との戦いのために自分たちの王を必要としていました。アンモン人とは、イスラエルの東隣に位置する民族です。イスラエルの人々は、サウル王が神さまにもまさる王として君臨することを望みました。これは、人間を神にしようとする神格化、すなわち偶像礼拝の罪でした。
- だから預言者サムエルは13節以下で言います。主は、あなたたちに王をお与えになるけれども、イスラエルの民はまず主を畏れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に背かず、イスラエルの民もイスラエルの王も主に従いなさいと求めたのでした。さらに16節以下には、「さあ、しっかり立って、主があなたたちの目の前に行われる偉大な御業を見なさい。」と言いました。王も民も、主なる神さまの言葉に聴いて主の御心が行われる御業の上に、しっかりと立とうとしないならば、主の御前に罪と悪を犯すことになるのだと言うのです。周辺諸国の軍事的脅威を前に、人々は神さまの真理に依り頼もうとせずに即物的に王の力に依り頼み、神の真実をないがしろにして、みずからが王の奴隷となってしまう罪を犯すのです。神の御心の上にしっかりと立って治世を行なうところに旧約における王としての職務があるのであって、その依って立つところを見失い、サウル王が結果的に陥ってしまったように自らを絶対化して、この世を支配し始めた時、王は果たすべきみずからの使命を見失ったのでした。
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「神の正義が実現していない現実であればあるほど、なお神の真実、神の不動に信頼して生きる。それが義人の生き方です。わたしの信仰ではなく、神の真実によって生きる。」(西田 晃)
今のような時代であればあるほど、日本のクリスチャンは、このような気概を見失ってはならないのではないでしょうか。この神の正義と真実という公平と命の尊厳、信頼と和解の精神の上にしっかりと立って平和を造り出すための証しを立てたいと願ってやみません。 - アッシジの聖フラシスコは、「ああ、主よ、我をして御身の平和の道具とならせたまえ。」と祈りました。この「我をして」という言葉を見逃してはなりません。一般論として平和を願っているのではありません。その平和のために、このわたしを具体的に用いてくださいと祈っているのです。14〜15節の「主の御声に聞き従い、主の御命令に背かない。」で、そこにしっかり立脚して主のなされる偉大な業を見る。ここにこの世の支配者に対してではなく、あくまでも神さまに対する忠誠を貫こうとする信仰が表明されています。これに基づいて、平和の道具としてわたしたちを用いてくださいと祈りたいのです。