弟子たちの真ん中に

2009年5月1(金)
三吉信彦牧師

ヨハネによる福音書 20章24~29節

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

  • トマスはあの日の夕方、弟子たちの輪の中にいませんでした。そのため、よみがえりの主にお会いできなかったのです。彼がいなかった理由は書かれていません。ただ彼は熱血漢で、ユダヤ人たちが主イエスを殺そうとしていると聞いて、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言ったのです(11・16)。でも、自分を含めみんな十字架へ向かわれる主を見捨てて逃げてしまった。そういう自分を責めて、慚愧に堪えなかったのでしょう。また仲間たちが、主をうらぎったのにまだ未練がましく寄り集まり、慰め合っている場にいたたまらなかった? あるいは、死に場所を求めてさまよっていたのかも知れません。

  • ところがたまたま出会った仲間の一人が、「わたしたちは主を見た」と言うのです。その時のトマスの思いはどんなだったでしょう。そんな馬鹿な!よみがえられた? 嘘だろう、死人が生き返るなんて。でも、主は生前、わたしはよみがえるとおっしゃっていた…ひょっとして! じゃあ、自分だけのけ者?熱情家だけに、憤りと情けなさ、悔しさと懐かしさ、さまざまな想いがこみ上げてきて、彼は口走ってしまいます。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れて見なければ…決して信じない。」

  • でも次の「週の初めの日」トマスは仲間たちと一緒にいました。ひとりでいる寂しさに耐えかねて、やはり仲間の輪の中に戻りたかった?いや、それ以上に仲間たちに主が現れられた様子を聞きたくてたまらなくなったのではないでしょうか。でもまさかもう一度、主が来られるとは思いもしなかったでしょう。ところが!よみがえりの主の「シャローム!」とのみ声が響き、驚く彼に「その手をここに当ててごらん。信じない者ではなく信じる者になりなさい」と優しく語りかけられる。もう身の置き所なく、悔いくずおれる彼はただ、「わが主、わが神よ」とひれ伏すばかり…。そうです、主はただトマスひとりに会うために、再び現れて下さったのです。

  • いろいろな事情で長く教会に来られなかった方が、ひょっこり礼拝に来られます。その時、教会の交わりの中に戻れたことをとても喜んで下さいます。また、若い日に別の教会で洗礼を受けたまま離れていた方が、教会を訪れて「やはり礼拝が第一ですね」と転入会されます。やはり私たちは交わりの輪の中にいることが大切です。その交わりの中心に、よみがえりのキリストが立って下さっているからです。トマスがひとりの時も、きっと傍らにいて下さった。でもきっと彼は、仲間の交わりに戻って来たときに、主があの時も共にいて下さったことを、はっきりと知ったことでしょう。復活信仰とは、「私のよみがえり」「私の信仰の復活」のことです。 アーメン