キリストの香りを届けよう

2010年4月25日『こひつじ』誌162号掲載
三吉信彦牧師

コリントの信徒への手紙二 2章14~17節
 

神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。

  • 散歩していると、ふと花の香りが漂ってきて思わず足をとどめることがある。その香りに季節の変わり目を感じるのである。沈丁花に春の香りを、クチナシに梅雨のしっとりさを、金木犀の香りには秋の深まりを感じる、そういう風情がなんともいえない。

  • パウロは、福音宣教の業を、キリストを知る知識の香りを漂わす「よい香り」と表現している。この聖句を今年度の教会の聖句とした。ここで言う「香り」は、まず第一に神に捧げる燔祭の香りであって、パウロは自らの殉教を予感している。彼はこの時コリント教会から疎まれ、使徒職に疑いをかけられていた。その弁明をこの言葉で書き始めている。使徒職は「キリストの香り」を放つ務めだと麗しい表現を用いている。

  • また「キリストの勝利の行進」において漂う香りをもイメージしている。ローマ軍団の凱旋には香が焚かれ、花が撒かれたようである。さらに「行進に連ならせ」とあるのは、捕虜の引き回しというより、凱旋将軍を称える軍団兵のシュプレヒコールや、勝利を告げるプラカードのことであろう。キリストの勝利、「十字架と復活」を高らかに掲げ、叫ぶ、そういう自意識であろう。

  • 一方、この香りは「キリストを知る知識の香り」「よい香り」、福音のもつ香りである。キリストを知る者が、ユーオーディア(芳香)を放つ。その香りが漂うと、道行く人が足を留め、香りに心和ませる。そういう反応をもたらす香りである。私たちは何よりも、御言葉を学ぶことが肝要。日々に聖書に親しみ、キリストの香りを身に帯びて欲しいと心から願う。

  • 他方、パウロはこのキリストの芳しい香りを、彼を通して漂わせ、「生きるにも、死ぬにもわたしの身によってキリストが公然と崇められるように」(フィリピ一章)と切に望んでいる。私を通して、私の身によって、というのは、私の信仰、生き様を通して証しするということであろう。とすれば、私なりにキリストの香りを漂わせる、一人一人の個性の違いも大切にされる。パウロは個性が強く、激しい気性の持ち主であったが、他方で「このような務めに誰がふさわしいか」と、キリストの僕としての謙虚さを失っていない。

  • 沈丁花や金木犀は匂いのきつい花である。さもなければ香りをあたりに漂わせることは出来ない。香りの強さは個性の強さ。個性の強さは積極性であって豊かさにつながる。しかし、そのままでは刺激が強すぎる。それがよい香りとなり、人の足を立ち止まらせるのはなぜだろうか。それは風が香りを持ち運ぶから。私たちの個性の強さも、「聖霊の風」が吹く時に、きつい香りも良い香りとなるのではないだろうか。

  • また、花の香りには季節がある。その香りが春や秋の到来を人々に告げる。その花が最も活かされる季節、時がある。神の備えられる時が、個々それぞれの花に、個人に備えられている。そのことを信じて、一人一人のありようにおいて「キリストの香りを届けよう」。