見えないものを見る信仰
2011年4月24日(復活祭礼拝)
三吉信彦牧師
ヨハネによる福音書 20章24~29節
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
- イエスさまの弟子にトマスという人がいました。今日のお話から、彼は「疑い深いトマス」と呼ばれるようになりましたが、私はちょっと可哀想だと思います。トマスはとても情熱家でイエスさまと一緒に死のうとまで言ったくらいです。でも結局は逃げてしまったので、自分が情けなくて、心がいじけてしまって仲間から離れていました。ところがよみがえりの日にイエスさまは仲間に現れてくださったというのです。仲間はみんな、イエスさまにお会いしたと喜んでいます。トマスはいっそう仲間はずれにされたような思いで、自分は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ信じない」と言ってしまいました。本当はどうだったでしょう。主にお会いしたかった、ごめんなさいと言いたかったのではないでしょうか。
- それから1週間後の日曜日、トマスも仲間に戻っていたときに、イエスさまがまた現れてくださいました。そしてトマスに向かって「あなたの指をここに当ててみなさい」と言われました。トマスはもう申し訳ない、恥ずかしい、でもうれしい、いろんな思いがごっちゃになって、ただ「わたしの主、わたしの神さま」と答えるのがやっとでした。
- トマスは疑い深いのでもなく、また何事も自分の目で確かめ、触って見ないと信じないという実証主義者でもありません。トマスはただ信じたかった、イエスにお会いしたかっただけだと思います。でも、イエスさまは彼に「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」と言われました。これはトマスにだけではなく、実は今日の私たちに向かって言われたのです。私たちはもう弟子たちのように、主に直接お会いすることはありません。でも、私たちはイエスさまがよみがえって今も生きて側にいて下さることを信じています。そういう私たちをさして、幸いだと言ってくださっているのです。
- 弟子たちの復活の主に出会った話を読みますと、イエスさまを見ているのに、最初は気がつかないのです。死人が生き返るはずがないと思いこんでいるからです。そういう先入観があるから、イエスさまだと分からなかったのです。カエサルという人は、私たち人間は「見たいと思うものしか見ない」と言いました。逆に言うと、見たくない現実は受け入れられない、のです。ではどうして彼らは後でイエスさまだと認めたのでしょう。実は彼らの心の奥底には、イエスさまに会えたらいいな、という思いが潜んでいたからです。表向きは死人が復活するはずがない、でもその裏側には、イエスさまを裏切った、申し訳ない、お詫びしたい、そう思っていたのです。イエスさまはそこに触れられた。主イエスの方からトマスの心の傷に触れて下さったのです。トマスが触れたのではなく、イエスさまが彼の傷跡に触れてくださったのです。
- 私たちは皆どこか心に傷を負っていて、いやして欲しいと願っています。そういう人にはイエスさまが側にきて、その傷に触れていやして下さいます。見ないで信じる者は幸いとは、自分の目で見たり、手で触れたりしなくても、イエスさまの方からの働きかけを感じて信じる人は幸いという意味です。私たちは、主にお会いしたいと願うとき、聖書を開きます。聖書の御言葉を通して主イエスにお会いすることが出来ます。アーメン