神さまにできないこと

2011年7月24日(日)
三吉 明牧師

創世記 22章1~19節

 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。
 神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。
 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、アブラハムは若者に言った。
 「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。
 「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
 アブラハムは答えた。
 「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。
 「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。
 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

  • 神さまにできないことがあると言うと、えっ!と思うでしょう。クリスチャンは全能の神を信じると告白するのですから。でも、神さまにはできないことがあるのです。くわしく言えば、神さまはできないことを選ぶ、できるけどやらないと決意することができるのです。ノアの洪水を起こした(再創造)あとは、二度とこんなことはしない、とおっしゃいました。

  • 今日の聖書日課は〈アブラハム、イサクを献ぐ〉の記事です。何ということでしょう。神さまは、ご自分の約束の子を献げよとアブラハムに命じ、父から子を取り上げようとされました。アブラハムは「はい」と答え、黙々と神に従います。たきぎをイサクの背に負わせ、山道をのぼります。悲しい光景です。この特別な記事は中心場面(天使がアブラハムの刃をとる)とエピローグを除くと、定式的な三つの会話でなっています。おもに神が命じアブラハムが答える単純なものです。しかしその中で子が問い、父が答える会話は四連です。このような文献の場合、定式を破っているところに大切なことが隠されています。アブラハムの信仰は神に「はい」と言って従うことにではなく、「子よ、備え物は神自らくださる」と言えた信頼にあるのです。

  • もちろん物語全体から読めば、この父の言葉は子の疑問、不安に苦しまぎれに思わず言ってしまったようにも読めます。たしかに状況はそうだったでしょう。この時点でアブラハムに深い信頼があれば、神と交渉するべきでしょう。わが子をしばり、たきぎの上に載せる前に。それとも、それがあればこそ、そこまでできたのでしょうか。(もしかしたら神がアブラハムをためしたのではなく、神がアブラハムにためされたのでしょうか?)本当に分かりにくい出来事です。わかっていることはアブラハムがふりあげた手を天使が止め、神はこのことをなさらなかった、ということです。もう分かったから、殺さなくてよい、と神が思われた、というだけでなく、神さまにはできないこと、しないことがあるのです。神さまの全能とは人間をためしたり、こらしめたりするために、何でもすることではありません(人間の側がそう受け止める一つの信仰のあり方は別として)。


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  • 場面の展開はやぶに角をひっかけていた一匹の雄羊に目を移させます。神はイサクの命の代わりを備えていてくださった、と、アブラハムは信じました。父子の会話がそのとおりになったのです。ヤーウェ・イルエは今も信仰の原点といってよい、感謝の告白です。切羽つまったぎりぎりの告白が実は希望の告白だったのです。

  • 私たちは今、数ヶ月の大きな悲しみを通って神さまのなさることと神さまがなさったのではないことの見極めを必要としています。神さまのなさらないこと、言いかえれば人間のしてきたことの結末を、神の試練と簡単に呼んで、特に当事者でない者が云々してしまってはなりません。ただ、私たちは山への途上で父が子に語ったように、どんな時も、主は備えたもう、主の山に備えありと告白して進んでいきましょう。あの時、アブラハムを試みて御心を痛められた神は、御自らの子である主イエスを、ゴルゴタの丘にて全人類のために下さいました。この時は天使の手は止めませんでした。神さまにできないこと(しないこと)があるのは、ここに現れています。そして、この弱い無力の神がいつまでも、そしてどこでも、世界の希望です。アーメン