教会とは何か
2011年6月5日(日)
三吉信彦牧師
申命記 29章9~14節
今日、あなたたちは、全員あなたたちの神、主の御前に立っている。部族の長、長老、役人、イスラエルのすべての男子、その妻子、宿営内の寄留者、薪を集める者から水をくむ者に至るまでいる。それは、あなたがあなたの神、主の契約に入り、あなたの神、主が今日あなたと結ばれる呪いの誓いを交わすためであり、今日、主があなたを立てて御自分の民とし、自らあなたの神となられるためである。主がかつてあなたに告げ、先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたとおりである。わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである。
エフェソの信徒への手紙 1章23節
教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
- 私はキリスト教徒の家に生まれ、教会の中で育ったがために、「教会」を特に問うことはなかった。神学を学ぶ中でも、私の関心は聖書学であり、人間、歴史であった。しかし、講解説教のテキストでパウロの最初期のⅠテサロニケ書を取り上げ、かつて学んだ彼の最晩年のローマ書と対比しつつ読み進む中で、パウロの形成した「教会」とは何なのか、との問いが生まれてきた。教団諸教会の教勢の衰退が叫ばれる現在、今しっかりと「教会」を問うてみる必要がある。
- 「教会とは何か」。答えは神の家族、神の宮、礼拝共同体、神の民など複数あり得る。しかし、パウロの独自性は「キリストのからだ」にある。これ以外のものは、旧約の流れから導き出される。では「キリストの体」は旧約とは断絶した概念なのか。彼が飛び出したシナゴ-グ(ユダヤ会堂)と、新たに形成したエクレーシアとは何が違うのか? 律法学者サウロと異邦人伝道者パウロ双方に共通の意識があるはずだ。旧約をもひもときつつ共に「教会」についての連続の学びとしたい。
- 今日の聖書は、教会という存在の「外枠」を示す申命記の言葉と、最も「根幹」にある「キリストの体」とが端的に表現されたエフェソ書である。まず申命記29章は、出エジプトの旅路の終わりに結ばれた「神の民」の契約である。実は出エジプトの初め、シナイに於いて結ばれた最初の契約は、第一世代によって破られた。そこで、モーセは第二世代とモアブの野に於いて再契約を結ばせたのである。その構成員は男も女も、子供も、奴隷や寄留の他国人など「ここにいるあなたたち全員」である。そこには何の差別もない。今ここにいる者皆である。申命記法の神髄である。ついで「今日、ここで我々と共にいない者」。つまり、子孫たちとも結ぶという将来を見据えた契約になっている。ここでは「今日」という言葉が多用されている。捕囚という六百年後の「今日」、千年後の「今日」、永遠の「今日」。ここに新約の時代との接点を見い出し得る。つまりキリスト教会である。
- 一方のエフェソ書の「キリストの体」は、新約に見る教会の表象としては最も新しく、かつ最終の表現である。パウロはⅠコリント書12章でこれを最初に使う。しかし、彼は当時流行った異端グノーシスを論破するために相手方の用語を使った。宇宙世界を一人の原人に見立てたのを逆用したのである。エフェソ書はパウロの「キリストのからだ」を受け継ぎ、さらに発展させてゆく。頭なるキリストの体なる教会は、まさに地上世界に「生きて働く」存在として、キリストの手足となって、キリストの業をなしてゆくのである。
- 新約学者コンツェルマンは「教会は宗教的確信において一致する人たちが、ともに集うことによって成立するのではない。まさに逆である。教会が存在するので、人はその中に入ること、その規定の従って現実に生きることである。」要点は、パウロのいうように男も女もない、ユダヤ人もギリシャ人もない。すべてがキリストの体に抱き取られる。また、時代を超えて未来に開かれている。それが神の民・キリストの体である。旧約の申命記でモーセがはるかに約束の地を望み見たように、未来の世代への希望を捨ててはならない。今、ここに共にいなくても、きっと、未来の「今日」という日に子どもが、孫たちの世代がこの「キリストの体」に招き入れられている姿を、かつての教会学校の生徒が、いやその子どもたちが御前に立っている姿を信じて仰ぎ見ようではないか。アーメン