心の目を開いて
2012年4月8日(イースター合同礼拝)
三吉信彦牧師
ルカによる福音書24章36~49節
こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
- 主イエスはよみがえられました!なんと喜ばしいことでしょうか。でも弟子たちはすぐには信じられませんでした。どの福音書も、よみがえりの主を見て彼らは恐れたり疑ったりしたと書いています。ではそういう彼らがどうして信じられるようになったのでしょう。
- ルカ福音書によると、よみがえりの主が現れ、怖じ惑う弟子たちにご自分の手足を見せられます。それは釘痕の残る手足で、主が言われたとおり、この方は「まさしくわたし・十字架の主」なのです。
さらに主は、焼いた魚を目の前で食べて見せられたというのです。ヨハネ福音書にも似た記事があって、ガリラヤの湖で漁をしている弟子たちによみがえりの主が「何か食べ物があるか」と聞かれ、岸に上がってみると炭火で焼かれた魚があったと。これらは、今目の前にいる方が亡霊ではなくて、肉体をもった存在であることを示します。でもそれ以上に、むしろこの方こそずっと共にいて下さったあの主イエスであることを証明するものです。怖じ惑う弟子たちの心に、懐かしい主イエスの姿を思い浮かばせているのだと思います。 - 椎名麟三という作家が、この焼き魚を食べたという記事を読んで復活の主を信じる気になったと書いています。焼き魚を食べて見せるといういわば滑稽にも思えることまでして、自分がよみがえったことを何とか弟子たちに信じてもらいたい、そのひたむきな想いに心動かされたのです。ここに信仰の世界の不思議な力があると想います。
ルカ福音書24章の復活の記事には「(心の)目を開く」という言葉が二回出てきます。また同じルカが書いた使徒言行録九章のパウロの回心の記事には、「目からうろこのようなものが落ちて」とあります。復活を信じるには心の目が開かれなければならないのです。その心の目を開かせるのが、主イエスの十字架の愛、自らの命を差し出してまで私たちを愛して下さったそのひたむきな愛です。それがよみがえりの主によって説き明かされるとき、初めて私たちの曇った心の目が開かれるのです。二人の弟子たちに聖書全体を説き明かされた「エマオのイエス」の姿がここでも描かれています。なんとか「信じない者にではなく、信じる者になりなさい」と、ひたむきに私たちに日夜語りかけて下さっている主イエスの愛に心の目のうろこが溶かされるのです。 - 椎名麟三は共産主義者でしたから、宗教は阿片だと思っていた、その彼が変えられたのです。私たちも現代人として、目に見えるものしか信じません。そういう「こだわり」や「先入観」が心の目のうろこなのです。祈りつつ繰り返し繰り返し聖書を読んでいると、やがて聖霊が働く時が来ます。聖霊が生き生きと働き出すと、十字架と復活の主イエスの姿がさやかに心の目に映し出されるでしょう。