多様性という武器
2015年9月20日(日) 第一礼拝
寒河江健伝道師
ルカによる福音書 14章25~33節
大勢の群衆が一緒について来たが,イエスは振り向いて言われた。「もし,だれかがわたしのもとに来るとしても,父,母,妻,子供,兄弟,姉妹を,更に自分の命であろうとも,これを憎まないなら,わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ,だれであれ,わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち,塔を建てようとするとき,造り上げるのに十分な費用があるかどうか,まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと,土台を築いただけで完成できず,見ていた人々は皆あざけって,『あの人は建て始めたが,完成することはできなかった』と言うだろう。また,どんな王でも,ほかの王と戦いに行こうとするときは,二万の兵を率いて進軍して来る敵を,自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか,まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば,敵がまだ遠方にいる間に使節を送って,和を求めるだろう。だから,同じように,自分の持ち物を一切捨てないならば,あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」
- 今日の聖書の物語において,イエスさまが大勢の群衆に対して語る内容はとても厳しいものです。イエスさまはどういう意図でこんなに厳しいこと,例えば「わたしの弟子ならば自分の家族や自分の命を憎め」と語ったのでしょうか。もしもわたしたちがこれらの言葉を文字通り受け取るのであれば,イエスさまの弟子になることはかなりハードルが高いですし,ここに集まっているクリスチャンと呼ばれている方のほとんどが,自分はイエスさまの弟子ではないと思えてきてしまうのではないでしょうか。
- まず「憎め」という言葉の意味を確認します。普通わたしたちが使う「憎む」という言葉は「戦争を憎む」というように,本来あってはいけないことを許せないと思って嫌ったり,誰かの言葉や行動に強い不快感を持ったりするときに使用します。しかし聖書の世界,セム語では「憎む」は「背を向ける」とか「身を引き離す」という意味で用いるそうです。つまり日本語で言い換えると,「距離をおく」くらいの意味でしょうか。
- わたしたちは家族であったり,友人であったり,これまで出会ってきた多くの人からいろんなことを教わって成長します。さまざまな経験を積んできた結果,中には誰かに誇ることのできる自分の長所を持つ人がいて,それによってどこでも生きていくことができるという自信を持つ人がいます。イエスさまのもとに情熱を持って集まった大勢の群衆は,「わたしはイエスさまに対してこういう点で役に立つことができます。」ということを心に持っていたのでしょう。だからこそイエスさまは彼らに対して,「自分の能力というのはちょっと遠くにやって冷静に自分を見つめなさい。あなたの十字架を背負ってわたしについてきなさい」と語ったのではないでしょうか。
- では十字架を背負うとはどういうことでしょうか。十字架を背負うというのは,自分の誇れること,自慢できることではなく,弱さや悪いところ,至らないところをよくよく思い起こしなさいということです。自分の能力を自慢してイエスさまの後をついていっても弟子になれないのです。でもこれは同時に,能力がある,ないに関わらず,自分の弱さをよく知りながら,自分の十字架を背負ってイエスさまについていく人は,イエスさまの弟子として受け入れられるのだという大きな喜びとして響いてきます。