地の果てに至るまで
2013年4月28日(日)
三吉信彦牧師
使徒言行録 1章3~11節
イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」
さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」
主イエスは復活後、弟子たちに現れて、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダとサマリアの全土で、また地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と約束されました。始まりのエルサレムはユダヤ、そのすぐ北がサマリヤ、でもそのあとの地名は記されておらず、ただ「地の果て」とあるだけです。ここで言う「地の果て」とはどこなのでしょう。
まずは、この使徒言行録はどう見ているのか。使徒パウロがローマに着いた記事で終わっているので、ローマが「地の果て」。でも帝国の首都ローマが「地の果て」とは失礼ですが、福音の必要とされる地は大都市も片田舎も「地の果て」なのです。でも、パウロはローマをはるかに超えて「地中海の西の果て」スペインを地の果てと捉えていました。彼自身はローマで刑死しますが、比較的早い時期にスペインに福音は届いていました。では東の地の果ては? ネストリウス派が唐の長安に大秦寺という教会を建てます。「東の地の果ては中国」となります。当時の人は唐という名も知らなかったはず。とすれば主イエスは地の果ての地名を記さずに、まさに世界の隅の隅、地の果てまで福音は必ず伝えられる、そのことを見越しておられたと思います。
でも私は「地の果て」とはただ地図上の地名ではない、実は私だと思っています。私が福音を受け取ったときに、福音は「地の果て」に届いたのです。福音を必要としている人こそまさに「地の果て」です。それは貧富や身分の差を乗り越える福音の力です。キリスト教徒の家庭に育った私の幼心に刻まれているのは、アメリカの宣教師の姿です。B29が不時着して捕虜となった乗員デシェーザーは帰国後、伝道を志して旧敵国日本に再上陸、今度は爆弾ではなく、福音を携えて。その彼が大阪の片田舎の我が家で開いた家庭集会の後、帰り際にジープにつけたスピーカーで、「さよなら皆さん、また会いましょう。ニッポンバンザイ、ニッポンバンザイ」と言って去って行きました。敗戦国民に禁句であったような言葉を叫んだということで、妙に幼心の記憶に残っています。私という「地の果て」に福音が届いた最初の記憶です。そして今、私はここに立っています。
田中神学生は有名大学での学業、企業での研究に疲れ、心の癒しを求めてオーストラリアに滞在。そこでタイのハンセン病療養所と阿部さんの働きを知り、タイに出かけてキリストに出会うのです。彼にとっての地の果てタイで、自身が「地の果て」状況の彼に福音が届けられたのです。さらにタイのワークキャンプに参加し私と出会って、彼はタイでの献身を決意します。使徒言行録の「地の果てまで福音を」というスローガンは、宣教する側の使命を意識する言葉です。でも、それより前に捉えるべき点は「福音の受け手としての自覚」です。パウロはさすがその点をしっかり押さえています。「私が伝えたのは、私自身も受けたこと」、その受け手である自分は「教会の迫害者であった」、まさに福音から最も遠い存在、まさに「地の果て」としての自覚です。福音から遠い存在の「地の果て状態の私」が福音を受け取った時、その瞬間から彼は新しい「地の果て」へと旅立つのです。寒河江伝道師しかり、小寺さん、何さんしかり。「地の果て」状態の中で福音を受け取る喜びと感動、それこそ次の「地の果て」へと立ち向かう原動力なのです。それが主イエスの約束された聖霊の引き起こす「奇跡」ではないでしょうか。アーメン