ユーは何しに教会へ?

2015年12月27日(日)歳末礼拝
寒河江健牧師

ヨハネによる福音書 20章19~23節

 「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが許せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」

  •  2015年もあっという間に歳末礼拝を迎えました。皆さんに質問です。年の瀬の忙しい時期にもかかわらず、ユーは何しに教会へ?そこには来る人それぞれにさまざまな動機があることと思います。今日の説教題はテレビ東京の人気番組で、日本にやってくる外国人Youに密着する「Youは何しに日本へ」をもじってつけさせていただきました。とても大好きな番組なんですが、この番組を見ていると外国の方々が実にさまざまな理由で日本にやってきていることを実感します。わたしが見た回で印象に残っているのはたとえば、佐世保バーガーを食べに来たハンバーガー好きYou、ロボット相撲の世界大会のためにやってきた理系学生You、還暦を迎えて自転車旅をするためにやってきた老夫婦You、日本人女性と結婚するため、女性の親にあいさつにやってきたオーストラリア人の牧師Youもいました。教会に訪れる人もそれぞれ動機、理由があるでしょう。たとえば讃美歌を歌いたくてという理由や、まさに今日祝福式があるのでということもあるでしょう(笑)。
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  •  わたしが千葉教会に来て最初の年の2月のある日曜日に観測史上最大の大雪が降りました。4〜50センチ雪が積もり、交通網が麻痺したため、ふだん100名くらいでなされる千葉教会の礼拝が、その日は32名しか集まることが出来ませんでした。しかし逆に言うとあの大雪の中、32名も来たのです。家の近い方ならまだ分かるのですが、花見川区にお住いのNさんも、家から新検見川の駅まで長靴を履いて歩いてこられました。そしてIさんも靴の底が抜けてまで、教会に文字通り這ってやってこられました(笑)。その動機たるや何なんでしょう。あの日、同じく朝早くから教会に来られたOさんが何としても教会に来なければいけなかった理由は、前日の土曜日にひじきご飯を仕込んでおられたからです(大笑)。しかしあの日、Oさんが朝はやくから教会にやってきて準備をしてくださったおかげで、東日本大震災の募金のために作られたひじきご飯は完売し、大雪の中必死にやってきた人たちのお腹は満たされました。
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  •  日本からちょっと離れて海外の教会の様子を見ると、他にも礼拝に来る理由があるように感じます。この間わたしはタイに行ってきまして、バンコクのプラプラデーンというところにあるピンク色の可愛らしい教会で礼拝に参加しました。この中には、そこに行ったことのある方もたくさんあるかと思います。タイの人たちは礼拝に出るとき、ほとんどの人がまるでパーティーに行くかのような格好をします。日曜日の朝になると女性たちは素敵なワンピースやドレスを身にまとい、それぞれおめかしをして礼拝の準備をします。子どもたちも親に可愛らしいドレスを着せられて、心なしかウキウキした様子で教会に向かうのです。彼らがおしゃれをして教会に行くのはまさに、日曜日の礼拝がパーティーだからです。日曜日は教会が救い主・キリストと信じる主イエスが復活した日であり、喜ばしい祝いの日です。
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  •  今日の聖書の19節にあった「その日、すなわち週の初めの日」とはユダヤ人の暦で日曜日を指しています。今日は20章の19節から読みましたが、20章には日曜日の1日の経過が記されています。1〜10節ヨハネによる福音書 20章1~10節
    週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私には分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方がペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中に入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう人りの弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。それから、この弟子たちは家に帰って行った。
    までは「日曜日の朝早く、まだ暗いうち」の出来事です。まだわたしたちが寝ている時間に、主イエスが納まっていた墓から消えるというお話です。11〜18節ヨハネによる福音書 20章11~18節
    マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。私が、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「私にすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また主から言われたことを伝えた。
    では午前からお昼頃、マグダラのマリアという女性の前に、死んだはずの主イエスが現れるお話です。そして本日の19〜23節は日曜日の夕方のシーンです。夕方になってようやくイエスの弟子たちが復活した主イエスに出会います。
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  •  この1日の時間経過にわたしはリアリティを感じます。物事が伝わっていく、あるいは人が体験したことは、体験した瞬間よりも後になって実感を伴うものだからです。例えばわたしたちは休みの日に、朝から楽しいこと、プチ旅行だったり、友人とB.B.Q.をしたり、ドライブに出かけます。その最中ももちろん楽しいのですが、むしろそれを終えた夕方になって改めて、今日は楽しかったなと振り返り、明日からの気力としていきます。朝から昼にかけて起きたことを、夕方になって改めて実感するのです。
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  •  しかし聖書には弟子たちが夕方、「ユダヤ人たちを恐れていた」と記されています。どういうことでしょう。弟子たちもユダヤ人ですが、弟子たちと他のユダヤ人には違いがあります。それは弟子たちがある種ふつうのユダヤ人のレールから外れ、イエスを救い主と信じ、イエスをリーダーとして信頼して集まったことです。
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  •  わたしたちも日曜日の朝礼拝に集まり、主イエスが復活したことを祝うために歌ったり、集まった人とおしゃべりしたり、一緒にご飯を食べたりして教会を後にし、家路に着きますが、夕方になると、恐れに襲われます。弟子たちがユダヤ人を恐れたように、日本にいるキリスト教徒も同じ日本に住む人々をある種恐れています。それは日本で教会に通うというのが、ある種スタンダードな日本人のレールから外れる行為だからです。八百万の神を信じるのではなく、イエス・キリストを主と信じ、唯一の神を信じて歩むのには勇気を必要とします。からかいにあうこともあれば、自分の信条とは異なることに手を染める必要もあるでしょう。キリスト教という宗教が少数派である日本において、キリスト教徒は時に自分の持っている考えや価値観をぐっと押し殺し、息を潜めて生きていかなければいけない不安や恐れを抱えています。
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  •  今年の夏、千葉県の教会全体の青年が30人くらい集まった千葉支区の修養会に参加をし、青年たちと懇談の時を持ちました。修養会のテーマは正確には覚えていないのですが、「日本社会でキリスト者としてどのようにして生きるか」みたいなテーマでした。講演を聞いた後、いくつかのグループに分かれて話し合いの時間を持ったのですが、わたしが参加したグループのディスカッションで話題になった一つは、恋人や友人に自分が教会に通っていることを言えるか?ということです。結構たくさんの人が、恋人や友人、職場に告白するのをためらうと言っていました。「なんかカルトと誤解されそうで言い出しにくい。」「ちゃかされそう。」という声が出ました。そういえばたしかIさんも、Kさんとお付き合いをなさっているとき、隠していたそうですね。日曜日のデートは決まって午後からで、「午前中何してるの?」と聞いても「いや、ちょっと…」とはぐらかしていたそうです(笑)。そんなお二人が結婚することになり、Kさんの方から夫が通っている教会に自分も行ってみたいとおっしゃられ、やがて洗礼を受けたということです。本当に神さまにしかできない巡り合わせ、導きですね。
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  •  しかし多くの場合はIさん、Kさんのようにハッピーエンドにはなりません。夫婦であればお墓や家の宗教の問題、職場であれば日曜出勤や接待ゴルフなど、悩ましい問題が付きまといます。なかなか日本でキリスト教徒として生きていくのは大変です。日曜日の礼拝後、家路に着いた夕方に、翌日からの日々を想像してわたしたちは不安になるのですが、今日の聖書はわたしたちと同じように同胞であるユダヤ人を恐れていた弟子たちのもとに主イエスが現れて、「あなたがたに平和があるように」と語りかけたと記しています。
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  •  「あなたがたに平和があるように」。このセリフを元の言葉であるギリシア語聖書を見るとたった2つの言葉だけが記されています。エイレーネー・ヒューミン、イエスさまが実際に話したであろうヘブライ語に翻訳すると、シャローム・ラーカムです。「シャローム」は「平和」、「ラーカム」とは「あなたがたに」を意味します。シャロームという言葉は平和以外に平安という意味もあり、心が穏やかな状態を指しています。ユダヤ人にとって心が穏やかになるのは、神さまが共にいてくださると感じるときです。日本人も似たような感覚を持っていますね。受験や手術など大事のときに神社のお守りをぎゅっと握り締めるのは、不安の中にあっても神様がこの場にいて力を発揮してくださいと祈っているのでしょう。
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  •  復活した主イエスは、恐れによって心がかき乱されていた弟子たちに、「あなたがたの心が穏やかになるように」と語り、手とわき腹を見せて、もう一回「シャローム・ラーカム」と言いました。ただ言葉をかけただけでなく、主イエスは弟子たちに体を見せました。彼の手とわき腹には、彼が十字架にかけられたときの釘の後、槍で体を貫かれた痛々しい傷跡がありました。主イエスの手とわき腹に残るこの傷は、弟子たちがリーダーであるイエスを見殺しにした動かぬ証拠です。弟子たちはイエスが逮捕されたときに彼を見捨てた当事者であり、咎められてもしょうがない罪を犯しました。しかし主イエスは弟子たちを咎めることなく、体を見せてもう一度、シャローム・ラーカムと言ったのでした。
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  •  弟子たちは生々しい傷跡の残る主イエスを見て、自分たちが犯した、言い逃れのできない罪に直面したことと思います。そして主イエスから「なぜわたしを見殺しにしたのか」と責めを受けると覚悟し、心が不安と恐怖で満たされていたところに、主イエスから「あなたがたに平和があるように」という言葉を与えられました。この言葉は弟子たちにとって、裁きを予想していたところに訪れた、まったくもって予期しない赦しでした。主イエスに咎められる、裁かれる。そういう不安と恐怖に満ちていた弟子たちの心が一気に解放されたことでしょう。自らが犯した罪に対する裁きから逃れられないと感じている人、いよいよいままでのツケを支払う時が来たと自覚している人にとって、赦されるということは至福の喜びに他なりません。
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  •  弟子たちは主イエスから負い目を赦され、喜びに満たされました。主イエスは続けて弟子たちに、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」と語りました。このセリフは難しいことではなく、「あなたがたがわたしに赦されてうれしかったのなら、あなたもあなたに対して罪を犯し、裁かれるべき人、裁かれて当然な人を赦してあげなさい」ということです。そうやって赦される喜びを伝播させていけば、この世から不安は消え、世界が平和に満たされる。そう語っているのです。
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  •  わたしたちは日曜日の朝教会に出向き、礼拝をして家路につきます。そして夕方になると明日からの日々が恐ろしくなります。明日からキリスト教徒が1パーセントにも満たない社会で生きなくてはならないからです。しかし夕方そのような不安を抱えて家にいると、今度は主イエスが「あなたがたに平和があるように」という言葉をかけにわたしたちの家にやってきます。「あなた」だけでなく「あなたがた」、つまりわたし一人にではなく、わたしたちに語りかけるのです。わたしたちは社会の中で孤独のように見えても、本当は一人ではありません。そのことをわたしたちは日曜日の夕方に、教会で仲間とともに讃美歌を歌ったり、おしゃべりしたり、ご飯を食べたりした朝のことを思い出して実感し、心を穏やかにされて次の日を迎えるのです!祈りましょう!
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  •  神さま、わたしたちはどうして日曜日の朝、教会に来るのでしょう。主イエスが復活された日を喜び祝うのですね。主よ、あなたの御名をほめたたえます。わたしたちはつい自分の思いが先行して、他人を裁いてしまいます。主よ、あなたから赦された喜びのうちに人を赦すことができますように。わたしたちに神の霊を与えてください。主よ、わたしたちは今日も夕方になると不安に襲われます。一週間、たった一人であなたの御心に沿って生きることができるでしょうか。主イエスがわたしたちのところに来てくださり、復活の朝、教会に集まって共に賛美し、食卓を囲み、おしゃべりし合ったことを思い出させ、わたしたちの心に平安を与えてくださいます。ありがとうございます。2016年もわたしたちを教会へと招き、わたしたちの心に平安を与え、また世界に主の平和を伝えていくことができますように。イエス・キリストのお名前を通して祈ります。アーメン