いのちの連鎖

2013年10月6日(日)
三吉信彦牧師

ヨハネによる福音書 6章22~33節

 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

     

  1. 今日の聖書テキストは、ヨハネ福音書の「聖餐の言葉」と考えられています。よく知られた最後の晩餐の席ではなく、あの5千人の給食の記事がきっかけです。その後、湖を渡った主イエスを、パンの奇跡で満腹した群衆が探し廻って、ついに見つけます。こうして主と群衆との長大な会話が始まるのです。その中心は、人は何のために生きるのかを問うものです。
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  3. 二つの言葉に注目しましょう。一つは、パンの奇跡のあと主イエスは、人々が来て「自分を王にするため連れて行く」と知って山に退かれたこと。ついで主は人々に「朽ちる食べ物ではなく、朽ちない食べ物のために働け」と言われたこと、この二つです。主イエスは人々の心根をよく知り、主を探し回る動機と目的は「満腹」にあり、と断じられました。「常に満腹するため」に主イエスをパン自動製造機に祭り上げようとしたのです。こういう「満腹」を常に求めるだけの人々に、「朽ちない食物のために働く」、真の生きる目的へと目を開かせようとされました。「人は食うために働くのか、働くために食うのか」、この古くて新しい堂々巡りの議論の果ては、人は何のために生きるのか、という根源的な問いに行き着くのです。
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  5. 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」(53節)。この言葉はまことに直截で、おぞましい表現です。この言葉の故に多<の弟子たちが去って行ったとあります。実際ローマ社会では、キリスト教は恐ろしい密儀宗教と受け取られ迫害されたのです。しかし、このすさまじい御子の犠牲の上に、朽ちるべき私たちに朽ちない命が与えられたのです。「朽ちない命のために働け」とは、このキリストの犠牲をしっかり受け止めよ、ということです。そこから、私たちの地上の生の現実を見直すことが求められます。
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  7. 人が生きるという現実を振り返りますと、私たちが日常口にするパンや肉、そこには命があった。いわば私たちは植物や家畜の命を奪って生きているのです。人間は食物連鎖の頂点に立っています。動物たちは生きるに必要な分を食べますが、人間だけが飽くなき欲望のままに飽食し、弱者から奪い、地球資源を食い尽くし、挙げ句の果てのクローン食料品を発明し、神を冒涜しているのです。
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  9. 人が生きるのは、生かされているのだ。神が創造され与えられたあらゆる命によって、私たち人間は活かされている。この謙虚さと感謝なくして、本当の生きる喜びはありません。私たちの日々の食卓は、実は主の聖餐にこそ根源的な基礎があるのです。主の十字架は、私たちの罪深さを如実に描き出しています。私たちが御子を十字架に掛けた、その主の体と血に与るとはいったいどういうことか。聖餐に与るとき、私たちの生全体が主の十字架の犠牲の上に成り立っていることを知らされます。従って主の食卓はまた、日常の食卓においても覚えられるべきです。
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  11. 「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。その食物とはキリストご自身のことです。私たちは自分のために食べ、働き、この地上を生きています。けれどもその生の根底に御子の犠牲があることを知って、礼拝と聖餐において、罪赦され、新しく「朽ちない食物」に養われて、この「体」をもってキリストの栄光を現すために生きていく。それが朽ちない命に生きるということです。